注)本記事は、小河正義ジャーナリスト基金助成金を受け、ブルーインパルスファンネットの調査研究部会の活動として、航空ファン誌の航空祭記事などでご記憶の方もおられるかと思いますが、サイエンスコミュニケーションの研究者やカメラマンとして活躍された藤吉隆雄氏により作成されたものです。不明点は継続して調査を進めますので、当時の資料や記憶がある方はぜひご連絡ください。
(注・ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸)
2021年7月23日(祝・金)、東京の空にブルーが五輪マークを描いた。前回の東京五輪以来、57年ぶりのことだ。1964年に描いた五輪マークは、五輪史上初めての試みで世界的にも有名なアトラクションである。だが、この東京五輪に関連して、開会式当日も含めブルーは6回の公式展示を飛んでいる事実はあまり知られていない。6回の展示飛行を報道から追ってみよう。
閣議でブルーの五輪プランが出されリハーサル大会でフライバイ
月刊航空ジャーナル1977年7月号の「ブルーインパルス物語」連載第16回には、ブルーの1964年東京五輪作戦の発端について次のようにある。
“(前略)この年(38年)1月に、東京オリンピック委員会事務局から空幕に「来秋開かれる東京オリンピックの開会式当日、会場上空でフライバイをしてもらえないか」という打診があった。”
昭和38年は1963年である。この記事ではこの時に1964年東京五輪でのブルーの活動スタートとされている。ところが、東京五輪でのブルー飛行についての最初の新聞記事は、1962年12月28日(金)の朝日新聞夕刊6面に見つかる。「東京オリンピック開幕に 自衛隊で五色の輪 志賀防衛庁長官が提案」との見出しの小さい記事だ。
“東京オリンピックのプロローグに航空自衛隊のアクロバット・チーム“ブルー・インパルス”で大空に五色の輪を描こう、と二十八日の閣議の席上、志賀防衛庁長官が閣僚に相談したところ、五輪担当の川島国務相が「組織委で予算を検討しよう」と大乗気だったという。”
知られている五輪組織委員会から空幕への打診の時期より前に、閣議でブルーの五輪飛行が話題になったとの記事があるわけである。この朝日新聞記事では、源田参院議員[1]から防衛庁長官に強い要望があり、それを受け防衛庁から提案したことになっている。計画のスタートの時期的にも話の整合性がとれない。後述する五輪関連第3回フライト(入間基地)の記事から考えると、この五輪作戦は1961年から検討していたことなるため、実際にはこの1962年末の閣議までには計画はある程度は描かれていたのであろう。
その後、ブルーは1963年5月23日(木)にホームベースの浜松北基地で、打ち合わせに訪れたオリンピック組織委員会一行に公式展示を見せている。これが前回東京五輪関連の公式展示飛行6回のうちの1回目だ。
そして、次に東京五輪のリハーサル大会にブルーが登場する。これが関連フライト第2回である。リハーサル大会は東京国際スポーツ大会の名で、五輪前年の1963年10月に開かれた。開会式の模様が、昭和38年(1963年)10月11日(金)の朝日新聞夕刊(東京)に載っている。1面トップ記事の最後にこうある。
“自衛隊のジェット戦闘機が五色の煙をはいて上空をかすめて開会式をしめくくる。”
ブルーが5機デルタ編隊で編隊航過した描写であろう。この記事には写真は載っていない。また、同じ10月11日付の6面には「縁の下の力持ち 自衛隊」との記事で陸自の東京五輪支援集団による支援体制が詳しく紹介されているが、「航空機九機」の支援が述べられているだけで、空自の支援についての具体的な言及はない。リハーサル大会では、ブルーの飛行はまだそれほど重視されていなかったようだ。このリハーサル大会では「オリンピック東京大会への道 東京国際スポーツ大会画報」という公式記録誌が作られているが、残念ながらブルーの飛行と思われる言及も写真も載っていないのである。
ブルーが五輪を描くと決まり入間基地で予行フライト
次に新聞に登場する五輪関係でブルーに関連した記事は1964年4月6日(月)付の読売新聞夕刊の7面に出てくる。「自衛隊機が“五つの輪” 組織委、開閉開式の要綱検討」との見出しの記事に次のようにある。
“最後には航空自衛隊のジェット機が競技場の上空に五輪をえがきはなやかな大会気分を盛り上げる予定。”
これでブルーは五輪マークを描くと決まった。だが、小さい記事なので、観客たる国民へのアナウンス効果はあまりなかったであろう。
五輪関連公式展示飛行の3回目は1964年7月31日(金)に入間基地で行われた「オリンピック協力飛行予行」である。この様子が、翌日8月1日(土)付の読売新聞(東京)朝刊15面に載っている。入間基地上空にブルーが五輪マークを描いた写真が掲載されているのだ。写真下部にはT-33と見られる垂直尾翼が写っている。入間基地所在の航空総隊司令部支援飛行隊らしきマークが見えるので、入間基地上空に描かれた五輪マークの写真だとわかる。
五輪開会式リハーサルでブルーが五輪を一般に初披露
そして、関連公式展示飛行の4回目は、1964年10月3日(土)の五輪開会式リハーサルだ。この時のブルーの五輪の写真が翌10月4日(日)朝日新聞朝刊15面に大きく載っている。「あと六日 五輪開・閉会式リハーサル “本番”の興奮そのまま」との見出しの記事だが、本文中にブルーに関する言及はない。しかし、開会式リハーサルのイメージカットとしてブルーの五輪がスタジアムの観衆とともに写っている。真ん中上部の輪が上方にややずれて外れてしまっており、真円とは言い難い輪も見える。リハーサルでは上手に五輪が描けなかった話が伝わっているが、まさにこの写真がその証拠だ。キャプションには「秋空に白く五輪をえがく自衛隊ジェット機(国立競技場で)」とある。まるでホワイトスモークによる予行フライトだったかと思わせるが、毎日新聞(東京)の10月4日(日)朝刊15面のリハーサル詳報では逆に次のように書いている。
“上空には自衛隊第一航空団アクロバット・チーム「ブルーインパルス」(青い衝撃)のジェット機が飛来、五色の五輪模様をみごとに描いてみせた。”
写真はないが、五輪を空に描いたのがブルーであること、そしてカラースモークだった事実を明確に記録している。なお、読売新聞でも10月3日(土)夕刊で開会式リハーサルを報じているが、こちらにはブルーに関する記述はない。
実際にこのリハーサルを国立競技場で見たという人に話を聞くことができた。父親が入手してきた関係者入場券でバックスタンド席から祖母と一緒にリハーサルを見たという野間ゆう子氏は「ブルーインパルスの五輪マークは会場では予告されてなかった」という。しかし、リハーサル終了後には、ブルーの白い(とみえた)五輪の印象を語りあいながら帰ったという。空に描かれた五輪にビックリした驚きが大きく、不完全な五輪だった記憶はないというから、その演出効果は大きかったのがわかる。
新聞各紙にさまざまに記録された五輪開会式本番のブルー
そしていよいよ、関連フライト5回目は当然1964年10月10日(土)の五輪開会式本番である。この本番でのブルーはどのように新聞に記録されているだろうか。
朝日新聞は10月10日(土)夕刊では3カ所にブルーのフライトが記録されている。まず1面トップ記事である。
“雲ひとつない大空に、豆粒ほどのジェット機が、五色の大輪を描いて飛び去った。”
開会式の重要シーンであったので言及されるのは当然であろう。10面には「オリンピック舞台採点」と題した記事がある。ここで画家の生沢朗氏が大会の色彩(の効果)を評しており、ブルーの五輪にも言及がある。
“ジェット機による五色の輪も秋晴れのおかげで五輪大会史上の圧巻となった。”
そして11面では、開会式の詳細描写の記事でも触れられている。
“選手団が一斉に見上げる空には、このとき自衛隊ジェット機のはく五つの輪が、中空にはっきり浮んだ。”
さらに朝日新聞は翌10月11日(日)の紙面でも2カ所でブルーに言及している。まず8面の「ローマと東京 良すぎた?お行儀 冷静・公平なスタンド」の記事の冒頭にこうある。
“開会式が終わった時「よかったねエ」「うまくいきましたなあ」「飛行機の五輪のマークがまた上出来でしたよ」”
さらに17面には作家の石川達三氏による「開会式に思う」とのコラムでも冒頭にこうある。
“日本の秋晴れ。……この日はまことに美しい秋晴れだった。航空自衛隊機が空にえがいた五色の輪が、夢のように美しかった。”
この開会式翌日の2つの記事は、ブルーの描いた五輪マークが開会式のハイライトだったことを雄弁に語っている。しかしながら、朝日新聞が開会式の当日翌日に5つの記事でブルーの描いた五輪マークに好意的に言及しながら、写真が1枚も掲載されていないのは残念なところだ。
毎日新聞(東京)の10月10日(土)夕刊1面も、やはり五輪開会式でほぼ占められている。そのなかに小見出し「空に見事な五色の輪」が立てられ、次のように描写している。
“「君が代」の斉唱。南の空から、かすかな爆音が伝わる。航空自衛隊のジェット戦闘機五機が、みるまにあざやかなオリンピックマークを描き出す。”
読売新聞(東京)10月10日(土)夕刊では2面にブルーが描写されている。こちらも小見出しがつけられ「青空に祝福の五つの輪」とある。
“八千羽のハトが放たれ、君が代が斉唱され、競技場の上空に航空自衛隊のジェット機五機が、巨大な五輪を白煙で描き出した。
酔うような演出。それよりも、感動にあふれる開会式だ。”
読売新聞では白煙と書いているが実際にはカラースモークで五輪が描かれている。記者の位置からは白煙に見えたのかもしれない。この2面記事にはブルーの写真はないが、11面にはブルーが描いた五輪マークの写真が大きく掲載され「会場の青空にクッキリ浮かんだ自衛隊機の五輪マーク」とのキャプションがついている。意外なことに、朝日、毎日、読売の3紙で開会式当日のブルーの五輪写真はこの1枚しかない。
五輪競技最終日にブルーは飛んだのか。ナゾの読売新聞写真集
ここまで、全6回の五輪関連公式フライトのうち5つを見てきた。組織委に対して見せた展示飛行(浜松)、リハーサル大会開会式フライバイ、五輪マーク予行(入間)、五輪開会式リハーサル、五輪開会式本番の5つだ。残る1回はというと、実は10月23日(金)の東京五輪競技最終日である。だが、新聞記事にはその記述も写真も見つけられない。本当にブルーは東京五輪の最後に再度飛んだのだろうか。
意外なところで、この10月23日の展示飛行とみられる写真を発見した。それは読売新聞五輪写真集「美と力」である。なんと、その表紙写真がブルーの5機デルタ編隊のカラースモーク飛行シーンなのだ。
五輪本番でブルーが飛んだのは開会式と競技最終日の2回と記録されている。開会式の日は国立競技場で五輪マークを描いたので、5機デルタ編隊を五輪会場からアップで撮っているならば競技最終日の写真である可能性は高い[2]。ところが、困ったことにこの表紙写真にはキャプションがついていないという難点がある。この記録写真集の本文中の写真にはすべてに詳細な説明があるのに、この表紙だけは何も情報がなく写真だけなのである。読売新聞に問い合わせたところ、「撮影日は不明」との回答を受けた[3]。記念すべき東京五輪写真集の表紙写真が出所不明というのは大新聞社の発行物としては疑問があるが、筆者は競技最終日のフライバイの写真だと推測する。ところが、航空ジャーナル1977年8月号の「ブルーインパルス物語」連載17回には、この東京五輪競技最終日のブルー飛行について「結局、最終日は視程不良で中止」との記述がある。対して、各種ブルー歴史ムック本には、第84回展示飛行とはっきり書いてある。そして空自浜松広報館にあるF-86Fブルー解散モニュメントの刻印も五輪競技最終日に飛行したと読み取れる記録だ。この前回東京五輪競技最終日のブルー展示飛行のはっきりした証拠写真を見つけたいところである。
そして、10月22日(木)付の読売新聞(東京)夕刊11面にはブルーに第1級賞状が授与され、組織委からは感謝状とトロフィーが贈られたとの記事がある。前回東京五輪関連のブルーの当時の新聞報道はこれで終わる。
1964年東京五輪の開会式本番でブルーが描いた五輪マークについては、いくつも写真が残っており、実際に肉眼で目撃した人はとても多い。テレビで見た人はさらに多数だ。対して、関連飛行の他の5回、特に東京国際スポーツ大会開会式と五輪競技最終日の展示飛行については不明確な点が多く写真も見つからない。当日の記録や写真、目撃者・関係者を見つけたいところだ。
[1]源田実氏:第3代航空幕僚長で、ブルーの創設を後押しした立役者として知られる。空自退官後に参院議員に転じた。戦前には、全国で行われた海軍への献納航空機「報国号」の式典で「源田サーカス」と愛称された曲技飛行チームを率いた。同チームをブルーの前身とする見方もある。
[2]開会式当日は五輪を描いた後の編隊は集合し、再度スモークオンして都内を5機デルタ編隊で飛行したという。だが、この写真集の表紙写真の距離感から見て、五輪マークを描いた後のパレードパスの写真ではないと推測する。
[3]2021年3月12日付 読売新聞東京本社 読者センターによる回答
(文・ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄)