注)本記事は、小河正義ジャーナリスト基金助成金を受け、ブルーインパルスファンネットの調査研究部会の活動として、航空ファン誌の航空祭記事などでご記憶の方もおられるかと思いますが、サイエンスコミュニケーションの研究者やカメラマンとして活躍された藤吉隆雄氏により作成されたものです。不明点は継続して調査を進めますので、当時の資料や記憶がある方はぜひご連絡ください。
(注・ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸)

 ブルーインパルスの記念すべき第1回公式展示飛行は、1960年3月4日(金)のチェックアウト・フライトとされている。その際にはブルーインパルスというチーム名はまだなかった。その後、4月12日(火)に第3回公式展示として源田実空幕長の視察を受けた。そして、4月16日(土)に空中機動研究班として文書上で正式編成され、そのままの名で活動開始したといわれている。しかし、この1960年春に突然チームができたわけではない。それに至る前史として4回の展示飛行が記録されている。そのブルーの前身チームは、コールサイン(無線呼び出し名)「チェッカー・ブルー」の名で呼ばれた。チェッカー・ブルーはどのような展示飛行をしたのか。その足取りを、メディア報道から追ってみよう。

 チェッカー・ブルーは1958年10月19日(日)の浜松北基地開庁記念行事に初登場した。当時の報道を見ると、10月19日(日)付の静岡新聞夕刊3面には「大空に描く ジェット機の大乱舞 浜松北基地の開庁式」との記事がある。そして、この記事には3機デルタ編隊が飛行している写真が添えられている。地上の観客も写し込まれており、キャプションにも「写真はアクロバット飛行をするジェット機とこれを見る見物人=浜松­本社間伝送」とある。ブルーの前身「チェッカー・ブルー」初展示の記念すべき写真と見て間違いないであろう。では、この初の展示飛行は誰が見たのか。10月4日(土)付の防衛日報には「航空部隊開隊式」と題する記事がある。この時期に北部方面隊(三沢市)、中部方面隊(入間川)、浜松北基地(三方原)、第二補給処(岐阜)で連続して開隊式を行うとの予告である。各基地には防衛政務次官をはじめとした高官が参列するとあり、空自基地そのものの最初の開庁・開隊式典であったことがわかる。そして、静岡新聞には「基地には山間の一般市民がぞくぞくと押しかけ(略)一万五千から二万の人出だった。」と記されている。一般公開で実施したこの浜松北基地の開隊式は実質的に空自初のエアショーであろう。「チェッカー・ブルー」は空自初のエアショーで飛び、防衛庁高官とともに一般市民約2万人が見たことになる。

画像: チェッカー・ブルーの記念すべき初展示飛行(静岡新聞1959.10.19夕刊)

チェッカー・ブルーの記念すべき初展示飛行(静岡新聞1959.10.19夕刊)

 この編隊アクロ飛行の公開成功に気をよくした航空幕僚監部は、翌1959年春にも展示飛行を実施するように第1航空団に命じた[1]。この時に、チェッカー・ブルーは英空軍「トレブル・ワン」や米空軍「サンダーバーズ」などの演目を研究し、西光1尉[2]を加えた4機編成とした。[3]この空幕命による展示飛行は3回行われたとされている。1959年3月15日(日)の平和日本防衛博覧会、3月20日(金)の防衛大学校卒業式、4月26日(日)の名古屋空港祭だ[4]。

 平和日本防衛博覧会は愛知県の犬山大自然公園で3月15日(日)から5月31日(日)まで実施された。愛知県、犬山市、中部日本新聞社[5]、名鉄電車[6]が連名で主催した行事である。この博覧会は当時の注目イベントだったようで、読売新聞1959年3月16日(月)付の中京読売版(10面)には、春の行楽行事記事のなかに地上展示機を取り囲む見物人の写真がある。つまり、チェッカー・ブルーはこの自衛隊全面協力の博覧会の開幕日に展示飛行したとの記録というわけだ。月刊航空ファンの1959年5月号にこの博覧会の様子がレポートされている。開場の日には展示飛行が実施されたとあり、F-86Fも飛行との記述はあるが、フライト写真はセスナL-19連絡機9機による編隊飛行が掲載されているだけだ[7]。中部日本新聞3月15日(日)夕刊には、「行楽の春スタート 犬山『平和日本防衛博』開く」との記事がある。展示飛行にはL19、L16とヘリコプターの編隊が飛来したことは書かれているが、肝心のF-86Fについては記述がない。

 メイン主催者と目される名鉄電車の資料を見てみると、名古屋鉄道史(昭和35年発行)にも博覧会開催の記述と会場写真があるだけで展示飛行についての言及はない。現在の名鉄にも、何回か編纂されている名鉄史での記述以外に当時の資料は残っていないという[8]。犬山には当時も今も滑走路がない。つまり、チェッカー・ブルーはリモート展示飛行だったわけだが、近傍の小牧基地または岐阜基地より離陸したのか、母基地の浜松基地から直接飛来したのかもわからない。この犬山大自然公園地区に現在所在する日本モンキーセンターにも、この博覧会の具体的な記録はないという[9]。残念ながら、この日にチェッカー・ブルーが飛んだ証拠は見つからない。

 次に、3月20日(金)の防衛大学校でのチェッカー・ブルー飛行はどうだったのか。3月20日(金)付けの読売新聞夕刊の京浜版(2面)や3月21日(土)付の神奈川新聞には写真入りで防大卒業式の記事がある。だが、展示飛行についての記述はない。防衛日報には3月16日(月)付に事前予告、3月20日(金)付に当日予告の記事があるが、やはり展示飛行については何も書かれていない。やはり、こちらも実際にチェッカー・ブルーが飛んだ証拠は見つからない。

 1959年3月の2回の展示飛行は記録が発見できなかった。
 では、4月26日(日)の名古屋空港祭でのチェッカー・ブルー飛行の痕跡は見つけられるだろうか。

 月刊航空ファン1959年6月号には4ページにわたって「名古屋小牧飛行場で開催された戦後最大の日米合同エア・ショー」の記事がある。そのなかに4機ダイヤモンド編隊で飛ぶチェッカー・ブルーとみられる写真が載っていた。キャプションには「航空自衛隊ノースアメリカンF-86D”セイバー”全天候戦闘機による編隊曲技飛行」とある。しかし、当然ながらチェッカー・ブルーはF-86Fのはずだ。残念なことに、写真の機影は下面なのでF-86FかF-86Dかは判然としない。だが、この記事本文に驚くべき記述を見つけた。

“愛知県犬山市で開催された防衛大博覧会の一環として、去る4月26日小牧飛行場では戦後最大の豪華なエア・ショーが開催され、7万余の参観者たちを喜ばせた。”

 なんと、空港祭ではなく、前述の平和日本防衛博覧会のエアショーだというのだ。ここで当時の新聞に当たると、やはり同様の説明になっている。

画像: 平和日本防衛博覧会エア・ショーのチェッカー・ブルーとみられる編隊飛行(上中央:月刊航空ファン1959年6月号)

平和日本防衛博覧会エア・ショーのチェッカー・ブルーとみられる編隊飛行(上中央:月刊航空ファン1959年6月号)

 4月26日(日)付の名古屋タイムズ夕刊には「特技飛行も実演 エア・ショーもひらく」との記事がある。こちらの記事中でも、はっきりと「平和防衛博覧会のエア・ショー」とある。肝心の内容はというと、昭和34年4月26日の中部日本新聞の夕刊3面には「エア・ショー名古屋空港で開く」との記事があり、チェッカー・ブルーの飛行した時間帯も記録がある。

“午前十時半からは第一航空団F86Fジェット戦闘機四機編隊による編隊、アクロバット飛行、(中略)珍しい特殊飛行が上空で行われ、見物者の目をみはらせた。”

 こちらでは四機編隊の飛行はF-86Fだと明記されている。やはり、月刊航空ファンに載っている4機ダイヤモンド編隊の写真はチェッカー・ブルーのF-86F編隊の写真であろう。

 この4月26日(日)の展示飛行は、名古屋空港祭[10]、小牧空港祭[11]などと従来のブルー歴史ムック本では書かれている。だが、ここまでに追ってきた当時の新聞・雑誌記事には、空港祭の名は全く出てこない。いずれも、平和日本防衛博覧会の行事の一つであるエア・ショーと紹介している。

 そうなると、3月15日(日)の博覧会本体の開会当日に犬山でチェッカー・ブルーが本当に飛んだのかが気になってくる。というのは、実はこの博覧会では海上自衛隊も別会場で展示を実施しているのである。中部日本新聞3月14日(土)付夕刊には「警備艇二隻、名港へ 自衛隊音楽隊もパレード 平和日本防衛博に協力」との記事がある。陸自中心の犬山本会場、海自中心の名古屋港会場(会期序盤数日のみ)、空自中心の名古屋空港会場(会期中盤1日のみ)という立体的な行事だったと考えられる。そうなると、空自の本格的な展示フライトは4月26日(日)のみかもしれない。

 航空自衛隊の正史[12]では、このチェッカー・ブルーの4回の展示飛行を次のように紹介している。

“3月15日の平和日本防衛博覧会開会式と3月20日の防衛大学校卒業式の展示飛行は簡単なフライバイであったが、4月26日平和日本防衛博覧会の協賛行事として行われた小牧飛行場(名古屋空港)の空港祭においては、4機のダイアモンド編隊でアクロバット飛行を披露した。”

 しかしながら、4月23日付けの中部日本新聞に載ったこの博覧会エアショーの広告(本記事のトップ写真)にも名古屋空港祭の文字はない。この中部日本新聞は博覧会の主催者でもある。開催3日前の広告ですら主催者は名古屋空港祭の名を使っていない。また、現在の名古屋空港ビルディング株式会社の広報担当も、「名古屋空港祭」及び「平和日本大博覧会・航空ショー」についての情報は何も残っていないという[13]。名古屋空港祭という名が、本当にこの行事で使われたのかは大いに疑問が残るところだ。

 果たして、チェッカー・ブルーは3月15日(日)の平和日本防衛博覧会の開会式当日に飛んだのだろうか。それとも、4月26日(日)の博覧会エアショーの展示飛行と混同されて伝わっているのだろうか。いずれにしても、チェッカー・ブルーのアクロ展示は、1958年10月19日(日)の浜松北基地開庁式と4月26日(日)の博覧会エアショーだけのようである。ブルー誕生前から伝承されている、フライバイだったとみられる1959年3月の2つの展示飛行の証拠を見つけたいところだ。

[1]武田頼政、「青い衝撃の歴史◁ブルーインパルス35年の軌跡▷」、『航空ファンイラストレイテッド96-2 No.86ブルーインパルス【青い衝撃の歴史】』、文林堂、1996、p67
[2]西光1尉は、空自初のF-104J墜落事故によりS38.4.10に千歳基地の滑走路南端で殉職している。
[3]4番機兼単独機として西光1尉が加わった。
[4]武田頼政、「青い衝撃の歴史◁ブルーインパルス35年の軌跡▷」、『航空ファンイラストレイテッド96-2 No.86ブルーインパルス【青い衝撃の歴史】』、文林堂、1996、p67。ただし、他の文献では小牧空港祭と記しているものもある。
[5]現在の中日新聞社
[6]現在の名古屋鉄道
[7]「平和日本防衛博覧会の航空自衛隊機」、『月刊航空ファン1959年5月号』、文林堂、1959、P59-61
[8]2021年2月2日、お客様センターからの回答による。
[9]2020年10月28日、学芸員の高野智氏による。
[10]武田頼政、「青い衝撃の歴史◁ブルーインパルス35年の軌跡▷」、『航空ファンイラストレイテッド96-2 No.86ブルーインパルス【青い衝撃の歴史】』、文林堂、1996、p67
[11]坪田敦史、「ブルーインパルスの半世紀」、『ブルーインパルス50年の軌跡』文林堂h22、p145
[12]『航空自衛隊50年史 : 美しき大空とともに』、航空自衛隊50年史編さん委員会 編、防衛庁航空幕僚監部, 2006
[13]2021年1月29日付のメール回答による。

(文・ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄)


This article is a sponsored article by
''.