戦後79年を経ても忘れることができない硫黄島での激戦。島内には旧日本軍の地下壕(ごう)や朽ち果てた機関銃など戦争の爪痕を目撃することができた。取材当日は気温33度、湿度90%を超える厳しい天候。戦時中も同様の環境であると想像するだけで、当時の過酷な状況は想像を絶する。今もなお島には旧日本兵の遺骨が眠っており、戦火の記憶は色褪(あ)せることはない。
地下壕でゲリラ戦
戦時中、栗林忠道中将率いる日本軍守備隊は海岸線で敵を迎え撃つ「水際作戦」ではなく、内陸部に広大な地下壕を築き、「ゲリラ戦」に転じた。米軍は、5日で落とすと豪語していた硫黄島攻略に40日近くかかり、多数の死傷者を出す結果となった。その壕に足を踏み入れることができた。戦時中に日本海軍呉鎮守府に造られ、現在も海自呉地方総監部(広島県呉市)の敷地内にある壕を見学する機会はあったが、そことはまったく異なる雰囲気だった。
火山活動が今もなお活発化している硫黄島の壕はサウナのように蒸し暑い。気温は40度以上で、場所によっては60度を超える。カメラを持って内部に入ったが、奥に行けば行くほど蒸気でレンズが曇り、撮影することはできなかった。壕の入り口は狭く、身をかがめないと入ることができない。それは米軍に見つかりにくくするためとされている。
島内のいくつかの壕を巡ったが、栗林壕と呼ばれる「兵団司令部壕」も見せてもらった。入り口部分は、非常に狭く、入りづらい印象だった。
案内した海自の大山3海佐によると、内部はコンクリート製の強固な部屋がいくつかあるほか、広い天然の壕もうまく活用しているという。昭和20年3月、栗林中将は、この壕で決別の電報を打ち、総攻撃の作戦会議を開いたとも言われている。
栗林中将はどんな思いで、最期の出撃をしたのだろうか。互いに鼓舞しながら、そして家族のことを思いながら、出撃に備えていたのかもしれない。そんなことに思いを巡らせ、壕の入り口で手を合わせ、鎮魂の思いを伝えた。
一日を茶碗一杯の水で
その一方で、比較的入り口が広い海軍の「医務科壕」を案内された。戦時には傷病兵を治療する病院として使用されていたそうだ。奥行き約50メートル、総延長約112メートルで、他の壕と比べて非常に広い造りになっている。
当時、使用されたと思われる鉄瓶や鍋、飯ごう、ドラム缶もそのまま残っている。当時は水不足で、集めた雨水をドラム缶に溜めて、飲料用の水として使っていたという。当時の兵士たちに支給された水は階級を問わず一日当たり茶碗一杯だったという。これらは戦時の厳しい現状を物語る。その一方で、米兵が飲んだとみられるコカ・コーラのビンも残されていた。
この壕は通気のための縦穴が掘られているが、奥の方は地熱で40~60度もある熱帯地域だった。病人や戦傷者が収容されていたらしく、戦後の遺骨収集で54柱の遺骨が収集されたと聞く。
大山氏は「島内にはまだ発見されていない地下壕が数多くあり、約1万1000柱の遺骨がいまだに眠っている」と話す。米軍は戦闘終結後、敗残兵対策の一環として、すべての壕に煙を充満させ、入り口を砂で埋め立てたという。このため多数の未発見の壕が今もあると言われている。
新しく発見された壕では、手りゅう弾で自決したとみられる兵士の鉄製ヘルメットの破片が天井に刺さっていたこともあったという。
今回の取材では、このほか米海兵隊墓地の跡地や旧日本軍の防御陣地「トーチカ」の内部で朽ち果てた機関銃やさびた高射砲など戦火の爪痕を垣間見ることができた。
戦争の悲惨さ肌で感じ
島内を巡り戦争の悲惨さを改めて肌で感じ、二度と戦火を繰り返してはならないとの思いを強くした。戦後79年を経て、日本はいまだに戦争に巻き込まれていない。まさしく平和を享受している。その陰には、日本領土で護(まも)りを固める陸上自衛隊、日本領海でにらみをきかせる海上自衛隊、他国からの領空侵犯では、戦闘機のスクランブルで対応する航空自衛隊がいるからだ。
自衛隊員は「戦争は二度と起こしてはいけない」との思いを強く持っている。その思いを実現するためにも自衛隊は防衛力の抜本的強化を図り、抑止力を高める必要がある。発足から70年、自衛隊の役割はますます高まっている。日本の平和を維持するためにも自衛隊員の存在は必要不可欠だ。