東京都新宿区にある防衛省は、JR市ケ谷駅近くに広がる台地に建つ。東京ドーム約5個分の広さを誇る敷地の南側の地下にある旧日本陸軍が造った「大本営地下壕跡」が3月18日、一般公開に先立ち報道陣に公開されると聞き、行ってみた。(防衛省発・特派員=ボエマル)
午前10時に指定場所に集合し、防衛省職員の案内で地下壕へ。安全第一とのことで入り口でヘルメットを渡され、かぶる。日ごろ頭が大きいことをかなり気にしているが、ちゃんといい塩梅のサイズがあった。よかった~。これで準備オッケー。いざ壕!
今回公開されたのは、地下壕全体のうち整備された一部分のみ。きれいに整備されて歩きやすく、けっこう明るい。厚さ1㍍の鉄筋コンクリート構造で、全体の広さは約1342平方㍍。よくある東京ドームの換算だと約0.0287個分だが、あまりに分かりにくいので、テニスコートで例えれば、約5面分になる。南北に平行する約52㍍の3本に対して東西に約48㍍の壕2本が交差している。
第2次世界大戦中の昭和16(1941)年8月から17年12月にかけて、大本営陸軍部や陸軍参謀本部が入っていた建物の地下約15㍍に造られ、陸軍大臣室や通信室、炊事場、浴場を備えて約200人が生活できる空間だったらしい。炊事場には電気釜があったらしいが、肝心の電気をどうやって得ていたのかは分からない。地下でも排水設備が整えられ、今も当時の排水溝が機能している。当時3カ所あった出入口には、500㌔爆弾にも耐えられるほどの堅固な鉄扉があった。
とにもかくにも詳しい記録が残っていないため、人力か機械による掘削かも不明。造られた理由もはっきりは分かっていないそう。でも真珠湾攻撃が昭和16年12月だから、それより前に、もうこの地下壕は造られ始めたということになる。まさか当時の「戦争イケイケ」だった日本軍が負け戦や、攻め込まれることを想定していたとは信じがたいが、東京への空襲や本土決戦に、すでに備えていたのだろうか。その答えは今となっては「地下壕の『溝』知る」(←キマッた!)などと思いながら、歴史的遺構で往時に思いを馳せた。
壕内部には通気筒が2カ所ある。通気筒の地上部は、今では雑木林になっているものの、かつては日本庭園の中にあって、その中に石灯篭を設置して通気部分をカムフラージュしていた。灯篭としてじっくり見ると、ぽつねんとあるにしては存在がデカく、かなりの違和感を覚える。でも通気筒なら、これくらい野太くないと窒息してしまうのだろう。
昭和20(1945)年8月14日のポツダム宣言受諾の際には、当時の阿南惟幾陸軍大臣がこの地下壕に若手将校を集めて「天皇陛下のご聖断が下った」と日本の敗戦を伝えた場所とされる。阿南大臣のイメージを深めたければ、2015年に公開され、終戦を描いた超大作映画『日本のいちばん長い日』をご覧あれ。役所広司さんの渋カッコイイ阿南大臣にハマるはず。実は役所さんの大ファンです。
地下壕の公開は、河野太郎防衛大臣が行政改革担当大臣だった2016年、壕を視察した後に防衛省に要請して同年に省内で決定された。防衛省は「明日の日本を支える観光ビジョン」に基づき、約1億円をかけて公開に向けて改修工事を進めてきた。今回見学できた範囲より、未公開範囲の方が圧倒的に広いから、約1億円の予算では、ここまでしか整備できなかったということなのかな。4月から一般公開される予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、当面延期されることになった。公開されれば、東京の新名所になること間違いなし。乞うご期待!