【2022年10月26日(水)2面】

日本のため、自衛隊のため、家族のため・・・
気候に悩まされ、文化の違いを感じた

 カッコ内の階級は派遣時。隊員プロフィールは、年齢▷派遣期間-の順。枠内は9月の懇談時。

身をもって活動の意義知った

画像1: PKO30年―派遣隊員7人が語るあの日あの時

池田真治曹長(3曹)
52▷1993(平成5)年3月~10月

 自衛隊初のPKO派遣となるUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の第2次隊に参加。当初は「実感が湧かなかった」が、出国前の編成完結式に来隊した河野洋平官房長官(当時)の姿を見て、任務への期待と重要性を認識したという。

 現地の任務は、国道や橋梁の維持補修、憲法制定議会選挙要員の情報収集や物資補給。気温50度に迫る猛暑での作業は、「集中力を保つのに苦労した」という。

 それでも、「自分たちが補修工事を行った道路や橋が住民の生活に役立ったことは大きな喜び。身をもって活動の意義を知ることができた」と達成感を語った。

画像: 車両から警戒・監視任務にあたった(左)

車両から警戒・監視任務にあたった(左)

今でも絆で結ばれた「仲間」

画像2: PKO30年―派遣隊員7人が語るあの日あの時

小津修太郎1尉(2曹)
46▷2006(平成18)年1月~6月

 第9次イラク復興支援群(サマーワ)に衛生救護陸曹として参加。宿営地を出動する部隊の救護支援や現地の医療関係者に対する衛生教育を行った。現地では砂嵐による退避命令が出た時、「ほとんど視界のない中、必死に待機車両まで移動した」と語った。

 激務だったが、「小津2曹がいるから、安心して活動できる」と警備部隊の隊員からかけられた言葉に救われた。また、「週1回、5分ほど日本の家族とテレビ電話で話せたのがうれしかった。充実した任務だった」と振り返る。

 活動した仲間とは、今でも固い絆で結ばれているという。

画像: 救護支援などに従事した(前列右端)

救護支援などに従事した(前列右端)

任務完遂で身に付いた「力」

画像3: PKO30年―派遣隊員7人が語るあの日あの時

山岸正善曹長(3曹)
47▷2002(平成14)年9月~03年(同15)3月

 第2次UNMISET(国連東ティモール支援団)に参加。副分隊長として、約2000カ所もの道路のアスファルトの補修などにあたった。

 驚いたのは、道路補修のために配分されたアスファルトがドラム缶の中で固まっていたこと。「50度を超える気温の中、ドラム缶を切断して取り出したアスファルトをバーナーで溶かして施工した」と振り返る。

 現地では、測量用の資材が盗まれる事態も発生。過酷な環境下で、言葉も通じず文化も異なる中での活動だったが、「任務を完遂できたことで対応力や忍耐力を身に付けることができた」と述べた。

画像: 酷暑の中、道路の補修にあたった(右手前)

酷暑の中、道路の補修にあたった(右手前)

国境越えても看護の形は変わらず

画像4: PKO30年―派遣隊員7人が語るあの日あの時

松尾幸子1尉(1尉)
41▷2015(平成27)年5月

 2015年4月に発生したネパール地震被害のための国際緊急援助隊に参加。看護官として国内3カ所で医療活動や巡回診療にあたった。現地は英語が通じず、通訳も不足。問診や診察に時間を要し、「ネパール語による絵で分かる問診票を作成し、病状を確認していた」という。

 記憶に残るのは、胸部腫瘤(しゅりゅう)の切除を希望して救護所に訪れた20代の女性。救護所では切除ができない旨を伝えると泣き出し、落ち着きを取り戻すまで寄り添った。「言葉や文化は異なるが、国境を越えても看護の形は変わらない」。その思いは帰国後も心の支えになっている。

画像: 丁寧に患者に寄り添った(左)

丁寧に患者に寄り添った(左)

「日本人への良い印象」伝わる

画像5: PKO30年―派遣隊員7人が語るあの日あの時

清水正人2曹(3曹)
42▷2015(平成27)年8月~10月

 国連TPP(三角パートナーシップ・プログラム)活動の一環としてケニアに派遣。アフリカ諸国の工兵隊員に建設機械の操作や整備要領を教育した。通訳不在時は絵やジェスチャーで対応した。

 学生の一人が「なぜ、日本人は俺たちに気軽に触れるんだ」と聞いてきたという。人種差別が根強く残る同国では、活動が不思議に思えたようだ。機械操作の教育も重要な任務だが、「日本人に対し、良い印象を持ってもらえたことがうれしかった」と語った。

 支援終了式では、現地の関係者がなかなか集まらなかった。自由な文化の現地人との交流は良き思い出だ。

画像: 派遣隊員たちは機械操作などを教育した

派遣隊員たちは機械操作などを教育した

「誠実さ」で信頼や尊敬獲得

竹田津佑介2佐(3佐)
37▷2020(令和2)年6月~21年(同3)6月

 第2次MFO(多国籍部隊・監視団)に連絡調整部運用幹部として参加。エジプト・イスラエル両軍などとの連絡調整をはじめ、司令部内の統制業務にあたった。

 部内には13カ国の同僚がおり、考え方や価値観も異なった。プライベートを優先する隊員もいて、多国籍の軍事組織の難しさを痛感したという。だが、誠実に積極的に業務に臨み、「同僚たちの信頼や尊敬を獲得できた」という。

 2020年(令和2)11月には、MFOが有する航空機の墜落事故が発生。「フランス人の上司は上番して10日ほどで事故に巻き込まれてしまった」と無念の思いも語った。

画像: 統制業務では難しさを痛感したという

統制業務では難しさを痛感したという

道路整備は平和構築そのもの

有薗光代3佐(2013年=1尉、2021年=3佐)
40▷2013(平成25)年5月~12月、2021年(令和3)8月~22(同4)年8月

 2回にわたってUNMISS(国連南スーダン共和国ミッション)に参加。1回目は第4次UNMISSに施設隊本部の広報幹部として、2回目はUNMISS司令部に配属。7カ国の陸軍工兵隊に任務を指示する立場となり、「英語でリーダーシップを取るのが難しかった」という。

 最重要案件は、南スーダン全土の約2700キロの道路整備。物資の運搬や医療施設へのアクセス向上、治安維持にもつながるため、「道路整備は平和構築そのもの」との使命感であたった。「日本の施設隊は『全工兵隊のお手本』として今も語り継がれている」と施設隊の活動に敬意を表した。

画像: 他国との調整を行った(右)

他国との調整を行った(右)


This article is a sponsored article by
''.