1945年(昭和20年)、8月。6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され、日本は15日に敗戦を受け入れた。それから76年。平成を経て令和に入り、戦争を自らの経験から語れる人は、年々少なくなっている。
そんな中、少しでも戦争の記憶を若い世代に語り継ごうと、さまざまな試みが行われている。長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が進めている「人工知能(AI)の語り部」もその一つ。テレビのニュース番組でも取り上げられていたが、被爆者の立体映像と音声認識技術などを組み合わせ、AIに被爆体験を語らせ、質疑応答もできるようにしようという取り組みだ。
また、若い人たちが戦争について学ぶきっかけとして、戦争を描いたマンガやアニメ、映画や舞台、文学作品や歴史書に触れるというのもある。「戦争ものは苦手」という人も多いと聞くが、この分野には、たくさんの名作がある。この時期、ほんの少しでも戦争を学び、平和とは何かを考える時間をつくってみてはいかがだろう。
ということで、記者は8月6日、劇団空感演人(くうかんえんじん)の舞台「海ゆかば ~ひめゆり学徒隊の祈り~」(両国エアースタジオ)を観た。
ひめゆり学徒隊とは?
「ひめゆり学徒隊」とは、第二次世界大戦(劇中では「大東亜戦争」)中、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒たち222人(引率教員18人)で構成された学徒看護隊のこと。アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、本格的な地上攻撃が始まった1945年3月末、那覇市南東に位置する南風原(はえばる)の陸軍病院に負傷兵の看護のために動員された。病院といっても、実際は大小の壕にすぎず、暗がりの中に負傷兵が無造作に寝かされている状態だった。動員後すぐ、米軍はこの病院にも迫り、学徒たちは軍とともに南部へ逃れるが、6月18日に突然の解散命令が下る。すでに沖縄に安全な場所はなく、追い詰められた136人の生徒たちが命を失った。
冒頭で敗戦から76年と書いたが、沖縄はその後、さらに27年間にわたり米軍に統治(支配)される。舞台でも、生き残って年老いたひめゆり学徒隊の二人が、「沖縄の祖国復帰になぜこんなにも歳月がかかったのでしょうか…。」「私たちは占領され、圧迫されることにあまりにならされてしまって、声をあげることを忘れてしまっていたから…。」という台詞があった。
来年は沖縄の本土復帰から50年の節目の年。沖縄の背負う歴史についても、改めて考えさせられた。
蒼優馬さん、「元自衛官俳優」の面目躍如
元自衛官の俳優・蒼優馬さんが、前川軍曹役で出演。女生徒たちが軍事教練を行うシーンでは、元自衛官の面目躍如たる迫真の演技で、鬼軍曹役をこなした。しかし、この鬼軍曹、実は心やさしき人物で、やがて負傷兵としてひめゆり学徒隊に看護される立場になった際、軍事教練で一番「へたれ」だった女生徒にやさしい言葉を掛ける。厳しさと優しさ。蒼さんの兵士役は、やはりこれ以上ないと思えるほどハマっていた。
劇のタイトルになっている「海ゆかば」は、自衛隊の音楽隊が演奏する行進曲(マーチ)では定番中の定番とも言える楽曲だから、聞き覚えがある人も多いだろう。
劇中では、お国のために戦う兵士を鼓舞する曲として、ひめゆり学徒隊の生徒たちの(師範学校の)卒業式で歌われる。生徒の一人が、先生に「どうして私たちは、卒業式で校歌や『別れの歌』を歌えなかったのですか」と聞く場面があり、1945年3月の卒業式だけ、急に「海ゆかば」に変更されたことが分かる。
また、負傷した前川軍曹が、病室にいた他の兵士とともに死を前にして歌いあげるシーンも印象的だった。
舞台終了後、役者さんたちにお話を聞く機会をいただいた。みんなまだ若い(20~30代)こともあり、この舞台が決まる前から「ひめゆり学徒隊」について知っていたという人は3、4人しかいなかった。しかし、役を通じて沖縄の歴史を知り、改めて平和の大切さや今の日常のありがたみを感じるようになったという声も多かった。中には、「蒼さんに、自衛隊での経験についていろいろ聞きました」という人もいた。
「劇団空感演人」をチェック!
脚本を手掛けた野口麻衣子さんは、「一番伝えたかったのは、戦争の歴史を語り継いでいくことの大切さ」と話す。ひめゆり学徒隊の生徒たちはごく普通の少女たちであり、普通の人がある日突然、自分の意思とは関係なく巻き込まれてしまうのが戦争の恐ろしさ。生徒たちの少女らしさを随所に描くことで、それを押しつぶし、日常を奪う戦争の不条理が描き出されていた。
劇団空感演人代表の藤森一朗さんは広島出身で、戦争をテーマにした作品も多いという。野口さんにおすすめを伺うと、「マザー ~特攻の母 島濱トメ物語」を挙げてくれた。もし再上演される機会があった際は、皆さんもぜひ足をお運びください。
エアースタジオ・空感演人
Webサイト
http://www.airstudio.jp/airstudio/index_top.html
公式ツイッター
https://twitter.com/airstudio_enjin
出演者からのメッセージ(A班/50音順)
蒼優馬さん twitter
沖縄戦の歴史については自衛官時代の教育で教わりましたが、本作品を通してひめゆり学徒隊について深く学ぶことができました。日本人として、また元自衛官として、この舞台に出演させていただくことが決まった時は、強い責任を感じました。過去、日本でこのような戦争が起きたことは決して忘れてはいけません。そして、平和を願い戦い続けた先人達の想いを胸に、今こうやって生かされてることに深く感謝し、これからも生きていかなければならないと思います。この想いが一人でも多くの方に届くことを祈り続けます。
飯島茉由さん twitter
私は、ひめゆり学徒隊の生き残りとして、戦時中からおばあさんになるまでの城間幸子さん役を演じさせていただきました。数十年前、この日本では、いつ命を落とすか分からない状況の中で必死に生き抜いた方がいらっしゃること、お国のために自ら進んで死を選ばなければならない事態があったこと、生きたいのに生きることがかなわなかったこと…、そういった方々に祈りを捧げ、今に感謝し、戦争が二度と起きないように、(演じることで)未来につなげていくお役にたちたいと思います。
一戸美奏さん twitter
私が演じた役は、戦時中を象徴するような人物(軍国少女)で、最初は自分とは感覚が違いすぎて役に入りづらかったのですが、それでも確実なことは、「とにかく一生懸命に生きていた」ということです。舞台が決まるまでは、ひめゆり学徒隊のことは知りませんでしたが、演じてみて、私たちが教えられた歴史というのは一部でしかないと感じました。私が知ることができたことを、少しでも多くの人に知らせて、今を大事にしなければいけないということを感じていただきたいです。
岩松剛さん twitter
自分が演じた上原(先生役)の台詞にあるように、戦争とは「人間が人間でなくなる」もの。人が人を殺すのが当たり前、敵につかまるなら自ら命を絶つのが当たり前、今の日本人からすると到底ありえないことが、たった70数年前にあったのだと改めて感じました。そして、軍人だけでなく、一般市民も巻き込まれて多くの人が亡くなったということも、若い世代が知っておくべき事実だと思いました。
小倉愛梨さん twitter
暗い中、舞台袖で出番を待っている時、ふと「実際の壕の中はもっと暗く、死体が横たわっていたりしたんだな」と思うことがあり、戦争の歴史を語り継いでくださった方の気持ちをちゃんと受け取って、伝えていかなければならないと思いました。私は戦争や、人が死ぬ作品から逃げていた時期がありますが、目をそむけずに知ることの大切さを教えていただきました。
木原絵美理さん
山里看護婦長を演じて、最初は医療従事者としてどんな状況下でも兵隊さんたちのお世話を全うすることに集中していました。ですが、ひめゆり学徒隊を演じられたキャストの皆様の素晴らしいお芝居に圧倒され、もっと恋をしたり、友達とお出かけをしたりしたかったであろう少女たちが、大人のために命をかけて働き、必死に生きる姿に影響を受け、日に日に私の中で、ひとりの大人としてひめゆり学徒隊を守りたいという山里看護婦長へと変わっていきました。
米良美沙さん twitter
ひめゆり学徒隊については名前だけしか知りませんでしたが、この舞台で、ひめゆり学徒隊が数ある学徒隊の一つであること、3月から6月までの沖縄戦で、6月18日に学徒隊に解散命令が出て、23日まで(の短期間)に死者が多いこと(身を守る術もなく、知らない土地で戦地に投げ出された形になったため)、教員を目指した少女たちのほとんどが疎開できなかった、または、しなかったこと、「海ゆかば」が準国歌と呼ばれていたことや歌詞の意味など、多くのことを学びました。
Ns.aoi(ナースあおい)さん twitter
現役看護師なので、ひめゆり学徒隊のことは知っていました。沖縄に行き、当時のまま残された防空壕に入ったこともありましたが、実際に演じるにあたり、今回さらに調べると、これまで知っていたよりずっと悲惨な状態だったことが分かりました。明日死ぬかもしれないという恐怖、愛する人たちが明日にはいないかもしれないという不安を感じながら生きていた時代が70数年前にあったということを知ってほしいと思います。
野村亜矢さん twitter
小1の時に観た「ひめゆりの塔」という映画が衝撃的で、一度しか見ていないのに、今でも鮮明に覚えています。戦争を経験している方が少なくなっているので、映画や舞台などで、どんな悲惨なことがあったのかを知ってほしいと思います。今回は師範学校の教師役だったのですが、自分と同じ道を目指している教え子を戦場に連れていかなくてはならない、そして死なせてしまったということは、本当につらかっただろうと思います。
日野佑哉さん twitter
祖父が戦争に行っていたので、子供の頃、学校の課題で話を聞くことになったのですが、いつも優しい祖父が「話したくない」と言っていました。テレビなどで情報としては知っていましたが、その時、本当につらく悲しいものだったんだなと思いました。今回、軍医として病院壕のシーンに出させていただいたのですが、こんなにも不衛生なところで治療にあたるしかなかったのかと驚きました。
平野由依さん Instagram
2012年の8月、15歳に時に母と沖縄に行った際、ひめゆりの塔、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたのがきっかけで、ひめゆり学徒隊や沖縄戦について深く知りました。劇中にあるように、悲惨な戦争の中でも、みんなで歌ったりする楽しい瞬間、幸せな時間がそれぞれにあったと知り、その時代に生きた人がみんな不幸だったとは思いたくない、みんなで歌うということだけで、こんなにも幸福感があるものなのかと感じました。