第1章
冷戦期以来の核軍備管理の枠組みは、大きく変化している。ポスト冷戦期に寄せた軍備管理の波が引き潮となり、近年は核兵器の近代化を軸とする世界的な核軍拡の新たなサイクルに入ったといっても過言ではない、第2の核時代と呼ばれる状況下にある。米ロ中距離核戦力(INF)全廃条約が2019年8月に終了し、新戦略兵器削減条約(新START)も2021年の終了期限が迫る中、期限延長のめどが立っていない。これらの条約は核の軍拡競争に歯止めをかけ、検証制度に基づく透明性・予測可能性をもたらすなどの重要な意義を持ってきた。しかし、核兵器やミサイル技術が拡散する中、安全保障環境は大きく変化している。米ロ2カ国以外にも対象を広げ、戦略・戦術核の定義や核兵器の数的上限の設定に加えて、新たな戦略兵器やミサイル防衛の位置づけなどを交渉すべきとの議論もされている。一方、核兵器不拡散条約(NPT)第6条が定める核軍縮誠実交渉義務の履行として、米ロ核軍備管理にかけられた国際社会の期待は大きく、「21世紀の軍備管理モデル」とされる後継条約の交渉の動向が注目されている。
こうした中、多国間での核軍縮、核不拡散の取り組みも動揺している。2015年の運用検討会議で最終文書案の採択に失敗したNPTは、条約無期限延長から25年目の節目にあたる2020年運用検討会議の成功に期待を寄せている。他方、核兵器国と核の傘国が反発する中、核兵器の人道的影響に焦点を当て、その全廃を求める核兵器禁止条約(TPNW)の交渉が市民社会の関与の下で行われ、2017年7月、国連総会で採択された。結果的に核軍縮のアプローチをめぐり国際社会の分断の懸念が生じる状況下で、NPT無期限延長の恩恵を享受してきた核兵器国にも核軍縮への関与が求められている。千差万別の各国の安全保障環境も念頭に、核抑止の必要性や核軍縮交渉の遅滞への国際社会の懸念、核リスクの低減や核兵器の人道的影響も考慮した新たな核軍縮の言説をいかに建設的に議論するかが問われている。
第2章
米中は閣僚級貿易交渉を断続的に実施し、一進一退の状況が続いていたが、昨年12月に「第1段階の合意」に至り、2020年1月には両国政府が通商分野で歩み寄りを見せて「第1段階」合意文書に署名した。ただ、今後「第2段階」の協議が合意にまで進展するかは予断を許さない状況が続いている。それは、米中両国が単なる貿易不均衡是正の条件闘争ではなく、科学技術を含めた総合的国力を争っていることが背景にあるためである。中でも米国は、次世代通信技術5Gで世界をリードする中国の主要5社の排除に乗り出すとともに、同盟国にも同調を迫っている。
第3章
第2回米朝首脳会談が共同声明なく終わった後、北朝鮮はミサイル発射の再開により、危機に回帰する能力を米国に強調した。並行して中国に対し、米軍プレゼンスの将来に関わる平和体制協議に同国を参加させることを示唆して提携への引き込みを図った。中国抜きの平和体制協議の可能性を示した南北「板門店宣言」から1年余り後のことである。北朝鮮は核兵器への恐れが米韓にもたらす戦略上の効果と、中国の米軍への脅威認識を強く意識した行動をとっている。また、その背後では、国内で金正恩国務委員長(朝鮮労働党委員長)に替わる勢力の出現を防止すべく、国家機関の政治的中立を「官僚主義」だとして否定して支配勢力の一翼とし、人々を「金日成民族、金正日朝鮮」に帰属させるイデオロギーの再確認を進めた。
他方、韓国の文在寅政権は、朝鮮半島における平和を構築するためには南北相互の信頼と対話が重要だとの立場をとり、北朝鮮の非核化の進展に対応する制裁解除などの見返りの提供を目指した。第2回米朝首脳会談が終わった後も、国際機関を通じた対北朝鮮人道支援供与を表明するとともに、板門店における米朝首脳の接触の舞台を提供したが、南北関係は進展しなかった。
韓国海軍による海自哨戒機に対する火器管制レーダー照射や、国際観艦式における自衛隊艦旗掲揚への韓国政府の否定的な対応などがあった日韓関係は悪化した。また、2019年8月に韓国政府は日本政府に日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の終了を通告したが、同年11月に同通告の効力を停止すると発表した。米韓同盟においては、米国と北朝鮮との交渉を側面支援するために合同演習の規模調整や名称変更が行われた。
文在寅政権になって初めて発刊された『2018国防白書』からは北朝鮮を「敵」とする表現がなくなり、北朝鮮以外の周辺国と推測される「潜在的安保脅威」への備えが強調された。国防予算は、核・ミサイル脅威への対応システム構築を含む自主的防衛能力を重視して編成された。
第4章
2019年の東南アジアでは、南シナ海の領有権争いに関わり中国の同海域でのミサイル実験や公船・漁船の活動など、同国の積極的な実力行使が目立った。東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国との地域行動規則(COC)策定の交渉では、草案作成プロセスで進展はあったが、そこから見えるのはむしろ、中国がASEANを使って軍事的・経済的に南シナ海を囲い込み、域外国のアクセスを拒否する枠組みを構築しようという試みである。
域内国の安全保障に影響を与える重要な事象として、2019年に行われた国政選挙を契機に従来の社会構造や民族・宗教間関係の変化が顕在化していることが挙げられる。タイでは、3月に民政移管のために8年ぶりに実施された総選挙の結果、軍事政権の暫定首相であったプラユット・チャンオーチャーが首相指名を受け、7月に第2次プラユット政権が誕生した。ワチラロンコン新国王の即位および5月の戴冠と新政権の発足により、タイの政軍関係は大きな転換期を迎えた。4月のインドネシア大統領選挙では現職のジョコ・ウィドド候補が勝利し、10月に2期目がスタートした。選挙戦における扇動によって社会の分極化が危惧されたが、対立候補だったプラボウォ・スビアントが入閣したことで鎮静化に向かうと見られる。
域内の主要国の国内紛争の展開については、フィリピン南部のミンダナオでバンサロモ自治地域(BARMM)が設置され、2月に暫定自治政府(BTA)が発足するなど、平和の構築が進展している。一方、イスラム教徒集住地域で紛争が長期化するという共通点を持つタイ深南部パタニでは、和平に向けた動きは進んでいない。
テロの脅威が継続する東南アジアでは、イラク・レバントのイスラム国(ISIL)残党の戦闘員が域内の国内テロリストと連携し、同地域での活動拠点の構築を試みている。各国政府はテロを阻止するべく対策を強化しており、その一環としてフィリピン、マレーシア、インドネシアはそれぞれの国軍の中に特殊作戦コマンドを創設した。
第5章
ウラジーミル・プーチン大統領は、首相であった時期も含めて2000年から実質的な最高指導者の地位にあり、長期的な観点から社会保障改革の確実な推進と厳格な財政規律を迫られる一方、政権のレームダック化や中央地方関係の不安定化を引き起こさないよう、慎重なかじ取りを求められている。大統領の強いリーダーシップの下、その補佐機関たる安全保障会議(諸外国のNSCに相当)が、対日関係を含めた国家安全保障領域の政策立案および実施において中核的な役割を果たしている。
2019年8月2日の中距離核戦力(INF)全廃条約の終了後、米ロともに中距離ミサイルの開発に公式に着手しており、東アジアにおいてミサイルの分野で軍拡競争が発生する可能性がある。それは米ロ関係、中ロ関係、日ロ関係など北東アジアの国際関係を本質的に変化させる可能性を秘めており、東アジアの戦略環境に大きな影響を与える恐れがある。ロシア極東地域においても、ロシアが日本を射程に入れた中距離ミサイルを将来的に配備する可能性について想定する必要に迫られるだろう。
2019年7月23日、中ロ両軍は両国の軍事協力史上初めてとなる東シナ海から日本海にかけての共同哨戒飛行を行った。この編隊が日本と韓国の防空識別圏が設定された空域を飛行したため、領空侵犯対応などの措置がとられる状況が生じた。また、9月には中央軍管区を中心とするロシア主導の大規模演習「ツェントル(中央)2019」が、集団安全保障条約機構(CSTO)や上海協力機構(SCO)の加盟国も参加する多国間演習の形で実施された。
近年、ロシアによる新しい戦い方として盛んに議論されている「ハイブリッド戦」は、非伝統的手段が占める割合の「程度の問題」であり、その社会インフラの脆弱性ゆえに、一部の旧ソ連諸国では実行しやすい。マスメディアやインターネットを通じた情報の拡散も、極めて少ない費用で可能となっている。
第6章
ドナルド・トランプ政権は、2017年12月に発表した「国家安全保障戦略」(2017年版NSS)において、米国が政治的、経済的、軍事的競争に立ち向かっていくという世界観を示した。そこでは中国や北朝鮮が、ロシアやイラン、国際テロ組織とともに米国が対峙する挑戦者に挙げられた。今日、中国に対する厳しい認識はさらに拡大しており、トランプ政権は軍事的分野だけでなく経済的、社会的分野において中国に対する競争的姿勢を強めている。その一方、依然として核・ミサイル開発を継続する北朝鮮に対しては、当初の緊張関係から米朝首脳会談が開催されるまでに関係改善したものの、「北朝鮮の完全な非核化」に向けて具体的な進展がみられるまでには至っていない。
トランプ政権では、2018年1月の「国家防衛戦略」(NDS)の中で中国およびロシアとの「長期的な戦略的競争」を最優先課題としたことに伴い、大国間競争時代に適した戦力の在り方、とりわけ近代化を含む戦力の能力強化を重視していく方針を示している。2020会計年度の国防予算要求では、宇宙・サイバー分野をはじめNDSが提示した強化能力項目へ重点的に投資しようとする姿勢がみられた。他方、陸・海軍はトランプ政権発足以降、戦力規模の回復と拡大に取り組んできており、戦力の質的な能力強化に向けた努力もみられるものの、その展開には引き続き注視が必要である。
また米国では、大国間競争時代においては前方の基地施設やそのほかの軍事アセットが有事の際に厳しい戦闘環境下に置かれることを前提とし、「プレゼンスのためのプレゼンス」ではない実効的な前方戦力の構築が必要との認識がある。これに基づき米軍は、脅威圏内で迅速に部隊を展開して敵の作戦・戦術上のジレンマを創出しようとする構想を西太平洋において検証している。
第7章
近年、日本は「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)構想の下、法の支配や航行の自由に基づく開かれた海洋秩序の維持と強化に向けて政府一体で取り組んでいる。防衛省・自衛隊もまた、「自由で開かれたインド太平洋というビジョンを踏まえ、地域の特性や相手国の実情を考慮しつつ、多角的・多層的な安全保障協力を戦略的に推進する」(「平成31年度以降に係る防衛計画の大綱について」)という観点から、FOIPの実現に向けた各種取り組みを推進している。
法の支配や航行の自由といった原則に基づく国際秩序の維持・強化がFOIPの主たる目的だとすれば、そうした構想は決して新しいものではなく、冷戦期から日本が一貫して追求してきた目標である。同時に、インドの台頭や2000年代後半からの中国の海洋進出の強化を受け、海洋の安全保障および海洋民主主義国との連携の強化がこれまで以上に重視されている点にFOIPの特徴がある。FOIPはまた、米国主導の既存の秩序の維持・強化を求めた構想であるとともに、日本を含む米国以外の国々の役割の拡大を重視しているという点で、潜在的には「多極化」時代に向けた新たな秩序構想としての側面を有している。
以上の観点から、防衛省・自衛隊は近年、海自を中心にインド太平洋地域におけるプレゼンスとパートナーシップを強化している。また、防衛省・自衛隊は地域諸国の能力構築支援や、多国間の安全保障協力への取り組みも強化している。その一方で、厳しい財政状況や人員の不足が続く中、これ以上の事業の拡大は困難であるとの声も一部からは聞かれる。
今後、予算や人員が一層逼迫化する中で防衛交流や協力を進めていく上では、全省的な対応や他省庁との連携強化が重要になっている。また、個別の事業のレビューや優先順位づけを行う上では、インド太平洋における防衛協力・交流の長期的な戦略の立案が不可欠であり、FOIPにおける韓国や中国の位置づけを検討することも、残された重要な課題の一つである。