東北地方の沿岸部を中心に壊滅的な被害を及ぼした東日本大震災。「あの時」、「その後」、防衛省・自衛隊はどう動いたのか。10年という大きな節目に、防衛省ホームページや平成23年版防衛白書など、さまざまな資料を基に当時の状況や事後の対応を振り返った。

※写真は全て統合幕僚監部ホームページから

初動

 防衛省・自衛隊は、地震発生直後の平成23年3月11日午後2時50分に災害対策本部を設置。その後すぐ、航空機による情報収集を始めた(下表)。

 午後3時30分に第1回防衛省災害対策本部会議を開催。防衛大臣が同6時に大規模震災災害派遣を、同7時に原子力災害派遣を、それぞれ自衛隊の部隊に命じた。

 これを受けて、自衛隊は発生当日から約8400人態勢で活動。陸自多賀城駐や空自松島基地などが被災し、航空機や車両が水没する被害を受ける中でも、被災者の人命救助のため大規模かつ迅速な初動対応を行った(※メモ1)。

【メモ1】 東日本大震災では、自衛隊の施設や装備なども被害を受けた。津波による被害では、陸自多賀城駐、空自松島基地が冠水するなどした。

 また、防衛白書によると、自衛官3人が死亡。うち1人は宮城地本所属の隊員で、地震発生直後、避難所となった小学校で被災者を誘導しているという報告があったが、その後、連絡が途絶え、発生から3カ月近くたった6月4日に遺体で発見された。

以後

【活動態勢】

 訓練以外では初めて自衛隊法に基づく即応予備自衛官と予備自衛官の招集を行うなど、自衛隊の総力を挙げて取り組んだ(※メモ2)。

【メモ2】 防衛白書によると、東日本大震災では即応予備自衛官が延べ2210人(実人数1374人)、予備自衛官が延べ496人(同317人)、それぞれ訓練以外で初めて災害招集され、1~2週間を基本的な招集期間として活動した。

 また、陸自の「予備自衛官制度60年のあゆみ」によると、即自隊員は主に岩手、宮城、福島3県の沿岸地域に派遣され、給水・入浴支援、物資輸送などの生活支援活動や捜索活動などにあたった。また、予備自は、救援活動を行う米軍の通訳、医療、部隊の活動を支援する駐屯地業務隊の業務などに従事した。

 自衛隊の派遣規模は、3月13日に5万人超、18日には10万人超、最大時で人員約10万7000人、航空機約540機、艦艇約60隻に上った。阪神・淡路大震災(平成7年)への対応における派遣規模2万6000人(最大時)を大きく上回るものとなった。

 こうした態勢のもとで、被災地域を中心とした基地・駐屯地では、派遣部隊の円滑な活動を支援するため、部隊の宿泊の受け入れや、不足した食糧や被服、装具類の緊急・大量調達を含む大規模な後方支援業務が行われ、重要な役割を果たした。