自衛隊の新時代を切り開く「女性自衛官たち」の活躍に、67年の歴史を持つ自衛隊専門紙「防衛日報」が独自取材で迫ります
 
キラリ☆輝く女性自衛官 ~ 蛯原寛子准陸尉(陸自15旅団)編
 
 那覇駐屯地に勤務する15旅団の最先任上級曹長、蛯原准陸尉は地元沖縄県出身。今のように本土から気軽に行くことができなかった時代の沖縄の雰囲気などもぜひ知りたいと、根ほり葉ほり質問してみた。そのお話を紹介する前に、まずは沖縄の歴史と、15旅団に関連する項目を簡単におさらいしておこう。

【戦後の沖縄と那覇駐・15旅団の歴史】

1945(昭和20)年8月15日終戦。沖縄は米軍の統治下に
1972(昭和47)年5月15日沖縄本土復帰
10月11日陸上自衛隊那覇駐屯地新設
1973(昭和48)年10月16日第1混成団発足
1975(昭和50)年7月20日沖縄海洋博覧会開幕(翌1月18日まで)
1978(昭和53)年7月30日自動車が右側通行から左側通行へ
2010(平成22)年3月26日第1混成団を廃止。第15旅団に新編
画像1: 沖縄にあふれる「アメリカンスタイル」(3/5話)

 報道などでは沖縄出身となっている蛯原准尉だが、厳密に言うと生まれたのは東京だそう。3歳の頃に静岡県御殿場市に引っ越し、沖縄本土復帰後の1974年(昭和49年)に、両親の故郷である沖縄県那覇市に戻った。

 陸上自衛隊最大級の演習である「富士総合火力演習」が行われる御殿場市や那覇市で育ったことは、陸自入隊の大きな理由の一つになったという。

「自衛隊はとても身近で、(沖縄で)不発弾処理にあたってくれる自衛隊員はかっこいい存在でした。就職活動の中で、ありきたりでなく、何か自分に誇れるものと考えたとき、自然に自衛官という選択になりました」

画像: 3月28日、不発弾処理対策本部で那覇市長と(左から本人、15旅団幕僚長、那覇市長)

3月28日、不発弾処理対策本部で那覇市長と(左から本人、15旅団幕僚長、那覇市長)

 ちなみに、現在でも沖縄では、沖縄戦で投下された不発弾がかなりの頻度で発見されるため、不発弾処理は離島などの緊急患者空輸とともに、15旅団の重要な任務の一つとなっている。7月1日現在で累計の処理件数は3万8620件、1,838トンに及ぶ。まだまだ戦争の爪痕はこんなところにも根深く残っているのだ。

画像: 不発弾処理現場を確認(左から3人目)

不発弾処理現場を確認(左から3人目)

画像2: 沖縄にあふれる「アメリカンスタイル」(3/5話)

 では、復帰直後の昭和の沖縄の雰囲気を、蛯原准尉に伝えていただこう。

――小さな頃に沖縄海洋博覧会(昭和50~51年)があったと思いますが、何か記憶に残っていることはありますか?

蛯原 海洋博はどのパビリオンも長蛇の列で、びっくりしたのを覚えています。ただ、一番記憶に残っているのは、昭和53年7月30日、自動車の対面通行が右側通行から左側通行へ切り替えられた日のことです。家族でニュースを見ながらドキドキしていました。小学校でも交通安全指導が行われ、沖縄としても我ら子供たちにとっても「歴史的大行事」でした。

――子供の頃に過ごした那覇市、または沖縄県の生活環境はどんな感じでしたか?

蛯原 本土復帰後に沖縄へ帰ったため、ドル時代の経験はありませんが、至る所に「アメリカンスタイル」が存在していました。中部ほどではありませんが那覇でもファストフードの店は多く、ハンバーガー、フライドチキン、タコス、コーヒーは当たり前。タコスを変化させたタコライスは沖縄が発祥です。
 電車がなかったのでバスが唯一の公共交通機関で、子供料金は30円でした。子供が多くて那覇市内の小学校は2000人を超える規模が多く、小学校が増えた時代です。今では街中の小学校が数校廃校になりました。
 復帰前に両親が里帰りする際はパスポートが必要で、私は母と二人で写真に写り、一緒のパスポートで沖縄に入島していました。

――70年代から80年代に好きだったテレビ番組や好きだった芸能人、スポーツ選手は?

蛯原 大好きだったのはピンク・レディーです。友だちとペアを組んで踊っていました。父がジャイアンツファンでしたので、王選手、その後、原選手まではテレビで応援していました。
 テレビ番組で言えば百恵ちゃんの「赤いシリーズ」! それに「ザ・ベストテン」は欠かさず見ていました。
 スポーツもドラマも家族の影響ですが、歌ものは自分が好みました。これはアイドルの存在だと思います。普通にアイドル好きでした。

短大時代の蛯原准陸尉

 まだまだアメリカの影響が根強く残っていても、ピンク・レディーや王選手に熱中したのは、この時代の本土の子供たちと変わりない。混沌として、パワフルに変化していく沖縄の様子が、蛯原准尉の言葉から伝わってきた。

画像3: 沖縄にあふれる「アメリカンスタイル」(3/5話)

 中学以降は、何といってもバスケットボールに熱中した。中学ではマネージャー。高校からプレーヤーとなり、卒業後も一般のチームでプレーを続けた。入隊後も駐屯地のクラブ活動でバスケを続け、富士駐屯地のチームでは全自衛隊バスケットボール大会で5連覇も達成している。

画像: 富士駐屯地女性バスケットボール部の仲間たちと(中央)

富士駐屯地女性バスケットボール部の仲間たちと(中央)

 コロナの影響で我慢の日々が続くが、今でも仕事以外ではBリーグの琉球ゴールデンキングスの試合を観戦するのが一番の楽しみ。「一番感動したのは2017年の大逆転ゲーム。たった数秒であっても、あきらめず、着実に、戦略を立てて勝ちにつなげたあのゲームは一生忘れません」と一段と熱のこもった様子で語ってくれた。

プロフィール

准陸尉 蛯原寛子(えびはら・ひろこ)
陸上自衛隊15旅団最先任上級曹長
昭和43年生まれ

【主な経歴】

平成元年 3月入 隊
平成元年 9月東部方面通信群(富士)
平成11年 3月東部方面通信群 信電陸曹(朝霞)
平成12年 3月陸上幕僚監部人事部(檜町)
平成13年 3月中央基地通信隊電話中隊 有線通信陸曹(市ヶ谷)
平成17年 8月第1混成団本部付隊 第1科総務陸曹(那覇)
平成22年 3月那覇駐屯地業務隊 司令職務室総務陸曹(那覇)
令和 2年 3月第15旅団司令部付隊 総務総括准尉(那覇)
令和 3年 3月現 職

▷▷ 次回は、自衛隊での出会いや経験を通して成長していく蛯原准尉の姿を紹介します。
 
第1話 第2話 ▷第3話 第4話 第5話


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