キャリアインタビュー第2弾
元自衛官キャリアインタビュー、ライターの太田です(私の経歴については前回の記事ご覧ください)。
今回は、Webプログラマーで活躍している岡田義隆さんにインタビューに応じていただきました。岡田さんは、Webプログラマーとして活躍していますが、もともとは航空自衛官として活躍し、その後民間企業に転職しています。
本日はそんな岡田さんの自衛隊時代の経歴や自衛隊への思い、そして仕事観についてお話を伺いました。
岡田さんの経歴
ーーまずは岡田さんの経歴をお伺いさせてください。
岡田さん:航空自衛隊には、2000年10月~2005年10月まで所属し、入間基地において5年間、任期満了まで勤務しました。空曹を目指していましたが、病気をきっかけに民間企業に再就職、現在に至るまでほぼ一貫してIT系の道を進んでいます。
民間企業へ移った後の経歴ですが、SIer(システム構築を請け負うエンジニア企業)に所属し、メガバンクやメガ証券において、おもに業務フローを改善するプログラム開発に携わる仕事をしていました。また、途中から副業として飲食業や運送業でアルバイトしてみたりと、せわしなく20代を過ごしたあと、30代は縁あって長野県に移住し、旅館業、農業を経験しました。
現在は個人事業主として自動車、重工、Web広告など色々な業界のシステム開発に携わっています。
自衛隊に入った理由
ーー自衛隊退職からプログラマーを軸にさまざまな業種を経験されていますね。まずは、自衛隊に入隊された背景と在職時の職務内容を教えていただけますでしょうか。
岡田さん:正直、私の学生時代の人間関係はボロボロで、高校を卒業してからの自分というものに、やりたいことや生きる希望というものはありませんでした。そんな僕に「ニートになるくらいなら自衛隊に入れ」と言ってくれたのが、当時航空自衛隊に所属していた親戚の叔父でした。
「言われて入った」ぐらいの消極的な感じなので、入隊動機としては決してかっこよくありません。ただ、今では自衛隊経験こそが自分を立ち直らせてくれたのだと感謝しています。
自衛隊で所属した部隊は、部屋いっぱいのミサイルシミュレーターがあるような、テレビで見る自衛隊からは少し遠い、いわば研究職の部隊でした。
人生を大きく変えた自衛隊という組織
ーー自衛隊入隊が人生の転換だったんですね。
岡田さん:自衛隊に入ったきっかけは「親戚に言われたから」という実に消極的なものでしたが、結果的には入隊当初の教育期間中、その日その日を生き抜いたことが、その後の自分に大きく自信をつける結果となりました。
なかなか端的には言い表しづらいところですが、いまにして思えば
「自衛隊は僕にとって人生の鑑別所であった」
と総括することができます。
鑑別所というと聞こえは悪いですが、今までのネガティブな人間関係をいったん遮断したうえで心身を鍛えることは、自己肯定感の醸成につながります。
入隊当初は足も遅ければ、体力もなく、ゲームしかできない人間でしたが、それでも当時の班長は見捨てずに面倒をみてくれました(後ろからたくさん追いかけられましたが)。
一般社会であれば、そこまで面倒を見る余裕はないでしょう。自衛隊は、そうした点、「人を育てよう」というマインドがあり、当時の自分に最も必要な「治療」だったと感じています。
入隊当初はアイロンや風呂掃除、縫い物まで自分でやらないといけないし、休みの日は熊谷の工場地帯の煙しか見るものがない。冬は気温が結構下がるため、銃を握れば冷たいし手先が痛いと身体的な苦労はしましたが、過去も未来も見ずにその日だけを生きる環境は、じぶんの心を強く、やさしくしていきました。
僕自身の経験からも、自分の人生を変えたい願う人は(若い世代を含め)たくさんいると思っています。僕は自衛隊をきっかけに人生を変えることができました。当時の僕のように人生を悩んでいる人に出会ったときは、自衛隊もとてもいい就職の選択肢だと伝えるようにしています。
自衛隊を離れ、再就職へ
ーー若い世代でも人生を悩んでいる人たちは沢山いますよね。踏み込むには勇気が必要なのかもしれませんが、人生を変える機会としても良い就業選択なんだと思います。また、自衛隊は、何より人を見捨てない組織ですよね。それでも自衛隊を退職されたのはなぜですか。
岡田さん:病気にかかって、その後の任期継続にストップがかかったことが原因です。僕は自衛隊に大きく人生を変えてもらったので、そのまま骨を埋めるつもりでいました。ただ、それが叶わず、急に続けられなくなったと知った時は、さすがに自分の価値の棚卸しに時間がかかりましたね。それでも部隊での勤務中に少し経験していたIT系なら、なんとかなるかもしれないと思い、親のツテではありましたがIT企業への再就職の道を選びました。
ーー非常に残念でしたね。親御さんの紹介で最初の会社に就職されたんですね。その後は、どのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。
岡田さん:民間企業における生活知識やIT現場の前線で戦えるような知識はほぼありませんでしたが、伸び盛りの業界であったことと、親のツテが功を奏して入社できました。仕事は、主に金融機関に常駐しての業務で、データを集計して拠点別の実績レポートをシステマティックにする仕事でした。東京駅を見下ろすようなロケーションや待遇含めて、就業環境としてもとても良かったです。
クライアントからの評価は高く、業務知識も深くなり、気がつけば7年ほどたっていました。少しずつ余裕が出てくると今度はどこまで仕事ができるか貪欲に自分を追い求めたいという欲求が出てきました。思うままに追求してみた結果として「アフターファイブを終電まで、居酒屋激戦区である新橋で働き、家についたら玄関で寝落ちしている」ような生活になっていました。
ーーなかなかハードな生活ですね。とても僕はできないですね。
岡田さん:僕の性格上徐々に時間効率が極まってくると、普通のサラリーマン生活は物足りなくなってくるんです。2年ほど考えたのち「これからは自ら稼ぐ力をつけなければならない」との結論に行きついて、その頃知り合った長野の旅館オーナーと意気投合し、地方への移住を決意しました。
ただ、これは大失敗。当初のプランは大きく空回りしたまま手持ちの資金と精神はすり減っていきました。思案ののち個人事業主となり、名古屋で仕事を探すことにしました。このころは「割れた氷から飛び移ったらまた割れた」ような経験をたくさんしました。
ーーなるほど、では今はプログラマーとして再出発しているわけですね。
岡田さん:名古屋に来てからは、東京にいたころと同じように安定的に仕事があるので、SES(System engineering service)で同じように仕事をまわしていましたが、新型コロナウイルスの件で状況は一変。名古屋の工業は大きなダメージを負い、私も一時的にですが完全な無職状態を経験しました。今は、東京にいたころの元同僚にWeb広告企業案件を紹介してもらい、東京の仕事をテレワークでこなしています。
変化に強い自走力を鍛えよう
ーー手に職があると比較的自由に動けますね。東京にいたころと比べて今のキャリアはどうですか。
岡田さん:サラリーマン時代は「明日のお金にも困るかもしれないフリーランス」という働き方が怖く、独立に対して二の足を踏んでいましたが、こうしてアクシデントが続いたのちに「独立してしまった」という状態は、結果的に色々な状況に対応する力がつき、キャリアとしてむしろ「変化に強い」と思えるようになりました。
ーーフレキシブルに対応するゲリラ的なキャリア形成ということでしょうか。今後はどのようにエンジニアとして、キャリアを作る予定でしょうか。
岡田さん:働き方の潮目は「ぶらさがりから自立」へと変化しているので、「働けば(カイシャから)お金がもらえる」ではなく「自分のハタラキから相手にどんな利益が出るのか?」を意識しています。
「安定」の定義は変わり始めており、そのキーとなるスキルは
「起き上がる力」
だと考えています。安定が脅かされることに戦々恐々とするのではなく、転んでも起き上がる力を持つことこそがこれからの安定になるのだと考えています。
エンジニアで言えば、実力の示し方は「所属」ではなく「アウトプット力」になります。「目的をもって作品を作ることができる」ことこそが最大の説得力となるので、キャリアを作るという意味でもポートフォリオ(自分の作った成果物)は欠かせないと思っています。
ーー大変ためになる自衛隊後のキャリアに関してお聞かせいただきありがとうございます。
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