はじめに

 令和6年(2024年)4月28日(日)、海上自衛隊鹿屋航空基地で第25回エアーメモリアルinかのやが開催され、ブルーインパルスは航空自衛隊新田原基地より飛来したリモート展示で参加した。
 鹿屋航空基地はP-1哨戒機の第1航空隊や回転翼のSH-60K哨戒機の第212教育航空隊等が配置されている。4月20日(土)には伊豆諸島鳥島東約150海里の洋上でSH-60K2機の墜落事故が発生し、1名が殉職し7名が依然捜索中である。このため展示飛行の内容を変更しての開催となった。
 対潜水艦戦闘の訓練中の事故であり、週末もなく、はるか遠洋で発生したという訃報に、こうした事故で改めて実戦さながらの訓練が行われていることを知ることとなり忸怩(じくじ)たる思いであるとともに、一刻も早く行方不明の隊員が見つかることを願い、殉職した隊員のご家族には心より哀悼の意を表したい。
 航空自衛隊やブルーインパルスにとっても人ごとではないだろう。T-4ブルーインパルス、第11飛行隊の第9代飛行班長、平岡勝3空佐(当時)はのちの飛行点検隊の任務において平成28年(2016年)4月6日(水)、鹿屋航空基地の航空保安設備の飛行点検のため同基地より離陸し、鹿屋市御岳に墜落し同氏を含め6名が殉職した。
 普通に出発地から目的地まで飛ぶフライトとはまた違う特殊な任務を担う中で、国防のため抑止力のため危険と隣り合わせの任務に邁進している隊員たちがいることを忘れず、日常生活が平穏に過ごせているのも隊員たちの努力あってこそということを忘れないようにしたい。

海自ホワイトアローズと空自ブルーインパルスが共演

 ブルーインパルスの参加は平成26年(2014年)4月27日以来10年ぶりである。それ以前には平成16年(2004年)4月29日に参加している。どちらも鹿屋航空基地に展開してのフルショー(その会場から離着陸する曲技飛行展示)であった。
 今年は空自同様に海上自衛隊も70周年であり、特別な周年行事として10年ぶりに招聘された。

海上自衛隊ホワイトアローズ(写真・中根拓)

 海自小月航空基地配置の第201教育航空隊による曲技飛行チーム「ホワイトアローズ」も展開し、海空アクロチームの共演となった。ホワイトアローズは以前はルーキーフライトというチーム名で小月航空基地の開庁記念行事で同基地の教官がデモチームとして展示飛行を披露していたが、ホワイトアローズとなって千葉県幕張でのレッドブル・エアレースで曲技飛行を披露するなど、教官が兼務で展示を行う体制はかつてのブルーインパルスを彷彿とさせるものであり、可能な範囲で展示飛行の実施範囲を広げている。
 記憶をたどる限りではブルーインパルスとの共演も初めてではないだろうか。

海自ホワイトアローズのT-5練習機(写真・中根拓)

新田原基地より飛来したリモート展示

 今年10年ぶりの鹿屋は新田原基地からのリモート展示で編隊連携機動飛行が実施された。
 平成16年、平成26年のゴールデンウイークは鹿屋のみで岩国フレンドシップデーが日程になかった。今年は鹿屋、岩国の両方に参加となっている。この二つの基地はT-4が配備された基地ではないため、電源車や持っていく予備部品も多くなるだろうし、電源車もあらかじめ陸送で持っていかなければならない。そうしたことも無関係ではないだろうが総合的な判断だろう。

開始課目となったスワン・ローパス(写真・中根拓)

 もう一つ、平成26年との違いは、こちらも理由の一つと考えられるが、燃料が変わったことである。前回以降、JP-4AからJET A-1に変更されている。ブルーインパルスのT-4には約500ガロン(1900リットル)の燃料が搭載可能と言われているが、水で1900kgもの重さとなる容量は、ジェット燃料であれば比重はJP-4Aでその0.751~0.802倍(重量で1426.9〜1523.8kg)、JET A-1で0.775〜0.84倍(1472.5〜1596kg)の重さとなる。3%から5%程度の重量増となる計算だが50kg前後の増重だ。ジェットエンジンでその差は大したことがないと思われるが、この重さが離陸に及ぼす影響は無視できない。片方のエンジンが離陸滑走中に故障したと仮定する離陸決心速度へ達する距離は長くなり、離陸中止のための滑走路残は短くなる。何も問題なく離陸すれば大した差ではないかもしれないが故障や鳥の衝突によるエンジン停止などのリスクも想定し確実に離陸あるいは離陸中止できなければならないのだ。

デルタ360ターンは変則の左旋回で実施された(写真・中根拓)

 このために滑走路長が長い飛行場の方が当然有利になるが、もう一つ、確実に離陸中止時に止める手段であるバリア(航空機着陸拘束装置)は、鹿屋には配備されていない。バリアの有無や気温などの天候は離陸規定に密接な関係があり、美保基地航空祭ではスモークオイルの搭載量を減らして離陸重量を減らしたようだし、福島空港への展開は天候を理由に見送られリモート展示に切り替えられた。美保も福島もバリアのない飛行場である。細部は明らかにされていないが燃料の比重の差やバリアも要因のようだ。

会場正面から後方へ抜けるピラミッド・ローパス(写真・中根拓)

 JET A-1の適用は民間機が使用する燃料と統一されるという面で石油精製施設の維持負担の軽減化というメリットがあるが、運用面では若干の規定が見直されても当然であろう。かつてコンピューターやインターネットは軍事目的で研究開発され、学術研究や民生利用に普及しメリットをもたらした。今日では民生品の技術が防衛装備品などに利用されつつありメリットをもたらしている。

D2形態で隊形変換も見せる編隊連携機動飛行

 鹿屋の展示飛行は新田原を母基地とするリモート展示の編隊連携機動飛行であり、増槽タンクを装着した格好良いD2形態の勇姿で、後方、横、前方からの進入を組み合わせ、課目間に隊形変換を見せながらの航過飛行と編隊連携機動飛行を織り交ぜた見事な展示内容であった。

P-1哨戒機とUS-2救難飛行艇の上を航過するフェニックス・ローパス(写真・中根拓)

US-2は機首に岩国フレンドシップデーのポスターを掲げての地上展示だった(写真・中根拓)

エアーメモリアルinかのや 編隊連携機動飛行・実施課目
(カッコ内は進入方向と特記事項)

①スワン・ローパス(↑)
②デルタ・ローパス(→)
③ピラミッド・ローパス(↓)
④デルタ360ターン(↗︎、左旋回)
⑤フェニックス・ローパス(↘︎)
⑥グランドクロス・ローパス(↓)
⑦ビッグ・ハート(↓、スラント)
⑧720ターン(↓)
⑨レベル・サンライズ(↓)

海自小月航空基地より展開したホワイトアローズのT-5練習機(写真・中根拓)

エアーメモリアルinかのや 編隊連携機動飛行・実施メンバー

1番機 川島良介3空佐(飛行班長)
2番機 松永大誠1空尉(展示デビュー)
3番機 藏元文弥1空尉
4番機 佐藤裕介1空尉(展示デビュー)
5番機 藤井正和3空佐
6番機 加藤拓也1空尉

陸自からも戦闘ヘリAH-64Dアパッチ・ロングボウが参加した(写真・中根拓)

民間からもWP競技曲技飛行チームが参加した(写真・中根拓)

エアメモの思い出

 エアーメモリアルinかのや。通称エアメモには平成16年(2004年)4月29日にT-4ブルーインパルス初展開と聞いて駆けつけた。ゴールデンウイーク初日であった。

平成16年4月29日のエアメモにて、展示飛行開始を待つブルーインパルスメンバー(写真・今村義幸)

 前夜、仕事を終え、羽田ー鹿児島最終便に搭乗し、鹿児島空港から鹿屋までレンタカーで行く行程であった。ところがである。便が出発して滑走路に向かうと地上滑走中に渋滞し動かなくなった。空港内の制限区域に不審者が入り空港が閉鎖になったという。欠航になればエアメモには間に合わない。機長からアナウンスがあり状況の説明と、機内でのケータイの使用が特別に許可された。通話が許可されたことなど後にも先にもその一回だけだ。しばらくして不審者が外へ出て運河のテトラポットの方に逃げ込んだらしいという。これは確かエアバンで空港の無線を聞いて知ったことだと思う。緊急事態だった。しばらくして離陸可能になった。しかし、規定の残燃料を下回ったためゲートに戻って給油するという。そんなことがあってかなり遅い時間の鹿児島到着となった。鹿児島空港のレンタカーのカウンターで慣れ慣れしく話しかけてくる人がいた。その時は怪しんだが、現在のブルーインパルスファンネット調査研究部会の藤吉隆雄氏である。知り合いとなるのはまだこの先、1年以上後である。旅館には迷惑をかけたが日が変わった深夜に何とか鹿屋に着くことができた。

平成16年4月29日のエアメモ曲技飛行展示(写真・藤吉隆雄)

 翌日本番の朝、会場にはブルーインパルスのメンバーがファンサービスで立っていた。その前の松島基地観桜会でファンの前に初めて顔を出した次期飛行班長の吉田信也さんがいた。いまでは、着隊し一度でも飛行訓練に搭乗すれば、ハンガー脇の外柵から撮られた新メンバーの写真がその日のうちにSNSに出回るが、この頃は展示飛行で新しい人が来たことを知り、そこからどういう人か知っていくことになる。その頃は隊長や飛行班長はまだ年上で、戦闘機パイロットの威厳も感じられ、恐る恐る近づいて話しかけたものだ。

今村「ああ、あのどちらの部隊から来られたのですか?」
吉田「302(サンマルニ)です」
今村「302は、ええええーと、どちらの基地でしたっけ?」
吉田「那覇です」
今村「あーオジロワシの!」

 ブルーインパルスに出会って半年くらいであった。ちょっと前まで編隊連携機動飛行との説明に「へへへへ変態?!れんけい…」と驚いていたくらいで、どの基地にどの戦闘機部隊がいるかもあやふやな頃だ。
 先日復刻したImachan通信のそのまた一年前の話である。行きの羽田での事件も含め強く印象に残っている。

鹿屋航空基地のゲート前にはゲートガーディアンとして二式大艇が鎮座する。米軍から返還後、東京港の船の科学館にあった。平成16年には鹿屋に移設されていたと思われる。川西航空機(現・新明和工業)による傑作機であり、同じく日本が世界に誇れるUS-2救難艇のご先祖様である。平成16年のエアメモ訪問時に撮影(写真・今村義幸)

海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にある海軍航空の歴史資料館。館内には旧日本海軍創設期から第二次大戦にいたるまでの貴重な資料のほか、特攻隊員の遺影や遺書などが展示されている(写真・中根拓)

 次回のブルーインパルスの参加はまた10年後であろうか。由緒ある鹿屋航空基地とエアメモにまたいつか行ってみたい。

《文と写真》
ブルーインパルスファンネット 今村義幸/中根拓
ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄