「日本人とユダヤ人」(著:イザヤ・ベンダサン)という本をご存じでしょうか。

 ユダヤ人の著者から見た日本観について描かれた本で、基本的にはユダヤと日本を対比させることによって話が進みます。それは砂漠とモンスーンであったり、遊牧と農耕であったり、一神教と多神教であったり……。この作品は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し有名になった一冊なのですが、この時点でなにかお気づきになりませんか?

 表紙の写真をご覧ください。何か足りないような気がしますね。

 そう、この本。表紙に翻訳者の名前が無いのです。
 海外の作品が販売されているときは、必ず翻訳者の名前が表記されるでしょう。しかしこの本には奥付にすら翻訳者の名前は掲載されていません。

 翻訳者がいない……つまり、最初から日本語で書かれた可能性もある?
「それにしては日本語が達者すぎでは?」
「いやいや、日本語に達者なユダヤ人だっているでしょ」
「でもなんか引っかかる……」
「一体イザヤ・ベンダサンって何者?」

イザヤ・ベンダサンの正体は…

 ーーーーー実はイザヤ・ベンダサン。今回のテーマである山本七平のペンネームです。

 神奈川県出身のユダヤ人という設定で書き、それを訳したのが山本七平であるというこれまた「設定」のもと出された本。もっとも公的にそれが肯定されたわけではなく、「限りなく真実寄りの仮説」という感じなのですが。
 ちなみにイザヤ氏は1918年生まれとのことで、今年で103歳になるのだそう。この「イザヤ・ベンダサン」という名前は山本氏いわく「地に潜みし者で、誰もさがしだせない者」という意味らしいのですが、誰も探し出せない幽霊が作者を置いてどんどん年齢を重ねていくというのも、なんとなく不思議な話です。

 さてそんな山本七平氏、前回の吉村氏と違い小説家ではなく評論家。イザヤ・ベンダサン名義の他にも、山本七平名義で日本論やコラム・キリスト教関連など様々なジャンルで執筆している人です。また翻訳家としての一面もあるので、「イザヤ・ベンダサンの翻訳を山本七平が務めた」という一文への信憑性が少し増しますね。設定の作り込みに余念が無いなあ。

 イザヤ・ベンダサンと山本七平の話だけで前半を使ってしまいましたが、ここで山本七平の作品が収められた棚を物色してみましょう。
 それでは今回ご紹介する一冊目はこちら。

「洪思翊中将の処刑」

 朝鮮人である彼ーーーー洪思翊(ホン・サイク、こう・しよく)は、なぜ日本の軍人になったか。最後には戦犯として処刑された朝鮮人日本兵・洪思翊氏について、膨大な資料と取材を以て書かれた評伝。
 日本兵でありながら抗日運動家と関係があったという複雑な関係性や、そのやさしく温和な人柄について記し、そんな彼がどう裁かれたかについて克明に記されているドキュメント。構成されている要素を見るとかなり難しいことが書かれている……と思うのですが(実際難しいは難しい)、「洪思翊」というひとりの軍人さんに着目することによって少しだけやさしく理解することが可能になるのかな、と思います。

「私の中の日本軍」(上・下)

 見た瞬間「うわ」と思う表紙のデザインが印象的な本ですね。前述したように、山本氏自身も戦争を体験し、実際に戦地に行った経験があります。著書の中にも、評伝などの他にも自らの戦争体験を書いた作品もあり、「洪思翊~」でも自らの体験が生きています。
 さて、「私の中の日本軍」は自身の軍隊体験をもとに日本軍について見つめ直した書。
 昨今、戦争体験者が高齢化により減少しているーーーーと言われていますが、この本が発刊されたのは1983年。38年前からすでに、戦争体験者の高齢化と伝えていくことについて考えられていたことがわかります。

 「そのように軍隊の体験者も戦場の体験者も数酸くなっていくと、そのような体験者から見せ場明らかにフィクションであるものが、実際には何の体験もない作者によって「事実」として世に提供される。そして提供される側はもちろん、提供する側までそれを「事実」と信じて疑わない場合がある。」(「はじめに」より)

 私はちょくちょくこのコラムで「生の声は重要」と書いていますが、この一文を読んだときに腑に落ちました。後年研究されて書かれた本とはまた違う「事実」がそこにはあります。まあ、たまに当時書かれたものでも平気でねじまげて書いている本もありますが、それは今回は置いておきます。
ともあれ山本氏の執筆理由は、「戦争体験者が正確に次の世代に語り継ぐこと」。そしてもうひとつが「百人斬り競争」をはじめとした太平洋戦争の「虚」の剥ぎ取りでした。
 そもそも当時の日本は、戦意高揚を目的とした記事をぽんぽん出していました。事実を伝えるのが本来の報道のあるべき姿ですが、ムードを作るためなら真実なぞ二の次であったのです。そうなるとなにが「事実」なのかなんて誰にもわかりません。
 だから山本氏は、そんな嘘や虚報の実態を探るためにこの本を書いた。「私の中の日本軍」は、山本氏が見た戦争とその正体と実態について探られた本なのです。

 ※百人斬り競争……南京攻略戦のさい、日本兵が敵をどっちが早く100人斬れるか競争したという記事が出回った。戦中は武勇伝として称えられ歌も作られたが、戦後になって非難が続出。しかし情報の出所があやふやだったり誇張があったり、そもそも創作なのでは?だいたい刀でそんなに一気に斬れるものなの?など疑問点が尽きない。

 言葉が慎重になりがちなテーマというと、どうにも手を伸ばしづらく難しいイメージがあります。実際なにが合っていて何が間違っているのか、という点を考えるとあまりにも不透明なのですが、山本氏の執筆作品はそのあたりもしっかり切り込み、「事実」を書こうとしているのがポイントですね。もちろん山本氏の主張にも賛否はあるのですが、不透明さの正体を知りたい時にまず取っ掛かりとして山本氏の本に手を出すのはありだと思います。それになんといっても、文章が読みやすい。そこまで堅苦しくなく、頭にすっと入ってくる文章なんですよね。

 軍についてなら「私の中の日本軍」「ある異常体験者の偏見」、まずどんな文章や考え方なのか知りたい、という人にはエッセイ「昭和東京ものがたり」がお勧めですね。

 それでは今回はこれにて、ごきげんよう。

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