注)本記事は、小河正義ジャーナリスト基金助成金を受け、ブルーインパルスファンネットの調査研究部会の活動として、航空ファン誌の航空祭記事などでご記憶の方もおられるかと思いますが、サイエンスコミュニケーションの研究者やカメラマンとして活躍された藤吉隆雄氏により作成されたものです。不明点は継続して調査を進めますので、当時の資料や記憶がある方はぜひご連絡ください。(注・ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸)

 1967~68年の明治百周年式典ではF-86Fブルーが会津若松と鹿児島で飛んだ[1]。だが、実は名前は違うが事実上もうひとつの明治百周年行事である行事でも展示飛行をしている。それは北海道百年記念祝典である。明治維新の結果として北の大地は北海道という名を与えられたのだ。この第3の明治百周年行事となる札幌での展示飛行はどのようなものだったのだろうか。

札幌市内でのアクロ展示は全国紙でも写真入り記事に

 北海道百年記念式典は、1968年9月2日(月)に札幌市中央区の円山競技場で行われた。この競技場の最寄りにある札幌西高は、ブルーインパルスの4番機パイロットを3名輩出しているブルーに隠れた縁ある学校[2]であったりするのは面白い符合である。

 この式典には天皇陛下夫妻が臨席し全国テレビ中継された。それだけの注目イベントだっただけあって、会津若松と鹿児島の明治百周年式典より、さらに記事はたくさん見つかる。

 1968年9月2日(月)付けの北海道支社発行版である読売新聞夕刊1面にはこの北海道百年記念祝典が詳報されている。全国紙は本社版ごとに違う1面とすることもあるが、支社版の1面を独自編集とするのは特別な場合に限られる。式典報道への読売の力の入れようがわかる。「花やかな集団演技 フィールドいっぱいに」との見出しの記事にはこうある。

“式典に続いて、午後三時二分から集団演技に移った。幕開けは航空自衛隊第一航空団(浜松)の戦技研究班(班・長武石栄三一尉)によるF86Fジェット戦闘機五機の曲技飛行。”
※「班・長」は原文のママ

 9月2日(月)付の読売新聞夕刊の(札幌)市内版には、「“世紀の祝典”にわく円山」との見出しの記事で祝典の全貌が詳しく紹介されている。祝典では航空自衛隊の支援が2つあったことが載っている。式典が開会する午後2時の3分前に「祝典を祝う航空自衛隊のF104ジェット戦闘機四機が上空を飛んだ。[3]」とある。千歳基地第2航空団の編隊[4]であろう。同じ記事の後段では再びブルーのことが出てくる。

“午後三時すぎ、航空自衛隊の北る“ブルーインパルス”のF86Fジェット機五機が飛来、大空のキャンパスにダイナミックな白煙の花を咲かせた妙技に会場は感嘆の声と拍手でどよめいた。”

 この読売の記事からは、当時の空自で最新鋭機だったF-104が式典を幕開けたうえ、ショー後半のアトラクションのショーオープナーとして86ブルーが配されていたとわかる。特にこの空自のF-104と86ブルーの両方を報じた読売新聞は翌日1968年9月3日(火)付の(札幌)市内版に写真特集にブルーのダイヤモンド編隊の写真を載せている。

読売新聞に載るダイヤモンド編隊は上昇していっているように見える。ダイヤモンド・ループを展示したのだろうか。

 では他紙はというと、朝日新聞では9月2日(月)付夕刊12面にブルーの様子を書き、翌9月3日(火)付の7面の写真特集でブルーのレベルオープナーの写真を載せている。

“午後三時過ぎ、式典の緊張をときほぐす後半のプログラム開始。浜松市の航空時停滞第一航空団戦技研究班のジェット戦闘機が、会場上空で曲技飛行を披露。”

 写真では中央を飛ぶ機体のスモークの軌跡からはロールを打っているように見えるが機体姿勢は判然としない。

朝日新聞では水平開花(レベルオープナー)の印象的な写真が載っている。レイアウトの都合かブレークの右側をカットした大胆な構図だ。

 残る全国紙の毎日新聞はというと、ブルーの写真の掲載はなく、9月2日(月)の夕刊7面の1文で触れているだけである。しかし、ここで言う輪は編隊ループを指すのか、クローバーリーフ・ターンのことなのか、当日の演目に興味が惹かれるところだ。

“航空自衛隊のジェット機五機が上空に輪を描き、ドラの音が周囲の山々にコダマした。”

地元紙2紙でもブルー祝賀飛行は大注目

 全国紙の読売と朝日は、ブルーの演技の記事と写真を別々に載せている。対して、地元紙の北海タイムスは1968年9月2日(月)付夕刊5面に「見事な離れ業、曲技飛行」とのサブタイトルで写真付きの詳しい記事を載せている。

“祝典第三部の圧巻は、航空自衛隊第一航空団戦技研究班(浜松基地)ブルーインパルスF86Dジェット練習機五機(武石栄三一尉-搭乗)による曲技飛行だった。時速九百キロ、時には低空百五十メートルで急速反転、背面飛行、垂直上昇そして四つ葉のクローバといわれる水平開花の曲技を披露した。ごう音、チームワークよく、ジェット雲を曳いての神ワザに近い演技に、ブルーインパルスをご覧になるのは初めてという天皇、皇后両陛下をはじめ、会場を埋めた二万五千人の参会者は、ひとしく空を仰ぎ、首を左右に回して。見事な離れ業に見入っていた。”

 この日の展示の最後で水平開花(レベルオープナー)が演じられ、会場では「四つ葉のクローバー」として紹介されたようだ。また、背面飛行、垂直上昇などの説明から、アクロバット飛行をしたとわかる。肝心のブルー機がF-86Dとなっているのは、もちろんF-86Fの間違いである。記事を書いた記者の頭に千歳基地への配備機の知識があって間違ってしまったのだろうか[5]。また天皇・皇后両陛下がブルーを見たのが初めてというのは、アクロ展示を見たのが初めてという意味だろう[6]

北海タイムス夕刊のレベルオープナー(水平開花)の写真は、マイクロフィルムが不鮮明なのかスモークの軌跡が良く見えない。

 この北海タイムスでは翌日の9月3日(火)付で写真特集の特報見開き面を増設している。前日の記事での不鮮明な写真とは打って変わって、同じレベルオープナーながらクリアな別カットのアップ写真が載っている。中央を直進してくる機体が遠くに写っており、スモークの軌跡が短いのには説明が必要だろう。F-86FからT-2時代のブルーのレベルオープナーは、現在の5機デルタ編隊からの一斉ブレークとは違い、4機ダイヤモンド編隊の後にソロ機が続く隊形[7]からスタートしていた。先行する4機が左右にブレークした後に5番機が飛び出てきてロールして正面を抜けていくという順序である。だが、この北海タイムスの写真では中央の5番機はロールしているようには見えず定常姿勢だ。

北海タイムス朝刊のレベルオープナー(水平開花)は、ダイヤモンド編隊の背後から5番機が飛び出してきた瞬間を捉えた、当時の機動が良くわかる写真である。

 1968年9月2日(月)付の北海道新聞夕刊11面には次のようにある。

“赤、白、青と次々と打ち上げられる花火。これを待っていたかのように五機のジェット機アクロバット隊が式場の空にクローバーの葉を描いた。”

 クローバーの葉と紹介しているのは、北海タイムスと同様に水平開花(レベルオープナー)のことを説明していると思われる。しかし、北海道新聞での写真掲載は翌9月3日付5面であり、5機デルタ編隊(傘型編隊)の写真だ。

北海道新聞の写真特集に載るブルーは、他社の写真とは違う距離感の写真で、道内各自治体旗の列に近い低い高度を飛んでいるのがわかる。

公式記念誌でも大きく扱われるブルー祝賀飛行

 ここまでは新聞でのブルーの記事を見てきた。では他の媒体ではどう記録されているか。まず、この祝典の公式記録を含む記念誌『北海道百年記念事業の記録』を見ると、カラー口絵でブルーの祝賀飛行が紹介されている。1ページがさかれ写真が大きく使われており式典の重要パーツだったと良くわかる。本文には次のようにある。

“ 赤・青・白の3色を組み合わせた七光星模様の花火が25発、会場北の広場と南の山すそから天空に花開き、その最後の花が消え去ろうとするとき、山陰から白煙を引いたジェット機が5機並んでおどり出てきた。
 航空自衛隊飛行教育集団第1航空団(浜松市)の“ブルー=インパルス”(青い衝撃)と愛称される戦技研究班F86F機による曲技飛行である。あるいは単独1機で、あるいは編隊で、背面・横転・宙返りと妙技を展開し、ダイヤモンド形編隊からみごとは花模様を描いて祝典行事の序幕を飾った。”

 写真は居並ぶテレビカメラの前で86ブルーがレベループナーを演じているものだ。カラー写真でこの祝賀飛行が記録さおれているのは喜ばしい。記事本文はこのレベルオープナーでショーストップしたことを説明してるようだが、ダイヤモンド編隊、つまり4機編隊から実施したと書いている。しかし、このレベルオープナーの写真では、当然のことながらスモークが5本写っている。

3台のテレビカメラの前を飛ぶブルー。北海道のテレビ3局(NHK、HBC、STV)はこの日の祝典中継からカラー放送を開始した。この祝典の重要度がわかる。

 北海道新聞社発行の『グラフ1968北海道百年』にも、同じくレベルオープナーの写真が載っている。こちらはモノクロ写真であり、記念誌よりシャープで細部まで見てとれる。この写真では中央を飛ぶ5番機がほぼ背面になっているのが見える。この札幌での飛行がアクロ展示だった証拠写真だ。

雑誌に載る写真は新聞よりも鮮明なのがうれしい。中央の5番機の機影が良く見え、ほぼ背面になっている。スモークのロールの軌跡も良くわかる。

 航空ジャーナル1977年11月号の「ブルーインパルス物語」連載第20回には、この札幌での展示飛行についても書いている。「13時10分に千歳を離陸した編隊は15分に会場へ姿を現わし、1回傘型でローパスしたあと曲技を始めた。」とある。読売、朝日ともに式典の流れを追った詳細記事のなかで、ブルーの登場は午後三時すぎとしている。航空ジャーナルの記事は時系列があわない。その点を差し引くとしても、「いつもより少ない9種目しか演技できなかったが、最後を水平ブレークで飾った。息もつかせぬ15分だった。」との記述は信じて良いだろう。

 この札幌の展示飛行で現地(地上)に派遣されたというブルー編隊長でもある原田実は、月刊丸の2002年9月号で、現地事前訓練をしていなかった当時のブルーでは、この札幌での展示飛行は前日予行をやった唯一の例だった旨を述べている。札幌市内とはいえ、円山と三角山に挟まれ、さらに三角山の背後には五天山も迫っている地形だ。円山競技場での展示飛行はそれだけ困難なものだったということだろう。9種目という演目の少なさは、山の合間を縫って飛ぶプロシャージャー・ターンの困難さによって生じたのかもしれない。

 演目ごとに山影から飛び出てくるブルーはさぞ迫力があったことだろう。天皇陛下がアクロを見た、当時としては珍しい前日予行をした、山を縫っての展示飛行だったこの特別なブルー祝賀飛行は多くの写真が残った。式典に参加した公式記録4万人に加え、会場に入りきれなかったと新聞が書く多くの人も見たはずである。その目撃談をぜひ聞きたいところだ。

[1]藤吉隆雄、「【ブルーインパルスの歴史を追う!Vol.6】1968年の明治百年祭で東へ西へ--会津若松と鹿児島を飛んだ86ブルー」、『防衛日報デジタル』、2021年、https://dailydefense.jp/_ct/17475187
[2]鈴木昭雄(F-86Fで4番機のち1番機要員。ただし1番機では公式展示をしていない。のちに航空幕僚長)、松林誠吾(F-86Fで4番機のち5番機)、高橋喜代志(T-4で4番機。のちに第501飛行隊長)の3名。
[3]記念誌『北海道百年記念事業の記録』での記録では8機となっている。
[4]当時の千歳基地では第201飛行隊と第203飛行隊がF-104J/DJ戦闘機を運用していた。
[5]千歳基地では1961年に編成された第103飛行隊が1968年の閉隊までF-86D戦闘機を運用していた。
[6]1964年10月10日の東京オリンピック開会式で、天皇・皇后両陛下はブルーが描いた五輪マークを見ている。
[7]米空軍サンダーバーズではスティンガー編隊と呼んでいる隊形

(文・ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄)