注)本記事は、小河正義ジャーナリスト基金助成金を受け、ブルーインパルスファンネットの調査研究部会の活動として、航空ファン誌の航空祭記事などでご記憶の方もおられるかと思いますが、サイエンスコミュニケーションの研究者やカメラマンとして活躍された藤吉隆雄氏により作成されたものです。不明点は継続して調査を進めますので、当時の資料や記憶がある方はぜひご連絡ください。(注・ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸)

 7月23日の東京オリンピックでの展示飛行に続き、8月24日にはパラリンピックでのブルー展示飛行が予定されている。このようなブルーによる部外行事での展示飛行はいつから行われているのか。実はブルー創設の年に早くも部外展示が実施されている。ブルーが正式創設されたのは1960年4月16日(文書上の処置日)だが、その4か月後の8月には初の部外行事フライトが行われた。しかも、母基地の浜松北基地からのリモート展示ではなく、千歳基地に展開し北海道で実施されたのである。

千歳でのブルー初飛行は基地公開ではなく部外での祝賀飛行

 各種のブルー歴史ムック本によると1960年8月27日(土)、千歳市で行われた「全道青年労働祭」での公式展示飛行が初の部外展示となっている。ところが、月刊航空ジャーナル1977年2月号の「ブルーインパルス物語」連載第11回ではこれを「8月4日は松島基地、同月27日は千歳基地の開庁記念日にアクロが参加」としている。千歳基地の開庁記念日と同日に全道青年労働祭が行われ、基地でアクロ展示をしたのを行事協力と記録したのだろうか。ここで『航空自衛隊千歳基地二十五年史』(1983年刊)に載る詳細な年表を確認すると、1960年には開庁記念日等の公開行事を実施したとの記録はない。千歳基地の初めての基地公開は、1963年の「千歳市航空祭支援 基地一般公開」のようだ。そうなると、航空ジャーナル誌記事にある開庁記念日は勘違いよる記述で、実際はやはり千歳を発進基地とした部外展示飛行だったのだろう(この航空ジャーナル記事の著者は元ブルー編隊長であるが、当該展示飛行のメンバーではない)。

 では、この行事はどのようなものだったか。調べてみると、実は行事名称が違っていた。本当の名前は「第11回全道青年大会」である(第15回とする読売新聞記事もあり)。この行事は当時ほどの大規模ではないようだが、現在でも継続して毎年行われている[1]。

 1960年9月5日発行の千歳市広報誌「広報ちとせ」208号によると、この大会は1960年8月27日からの3日間で開催された。同広報誌には「若人の祭典 第11回全道青年大会から」との見出しで次のようにある。

❝延々1時間におよぶ市中大行進のあと開会式に入り、このあと空からは航空自衛隊のジェット機によるアクロバット飛行、またヘリコプターからの花束投下、マスゲームが次々に行われ、夜は歓迎花火大会や航空自衛隊による野外音楽会が開かれ、大空の興趣は最高潮に達しました。❞

 「大空の興趣」という書き方から見て、航空自衛隊千歳基地が多くを支援したと想像できる。アクロバット飛行のジェット機はもちろん浜松の第1航空団ブルーインパルス、花束投下のヘリは千歳救難分遣隊(現在の千歳救難隊)、音楽隊は立川の臨時航空音楽隊(現在の航空中央音楽隊)が登場したということであろう。千歳基地を介してオール航空自衛隊での支援といった感じだ。ブルー飛行の記録と大会の会期初日は一致しており、ブルーはこの行事で飛んだとみて間違いない。

『広報ちとせ』1960年9月5日号の表紙には全道青年大会の開会式に多数の参加選手が並んでいるのが見える。この上空をブルーがアクロ展示したことになる。

全道青年大会の開会式で2空団と救難隊のあとにブルー登場

 では新聞報道はどうだったかと調べてみると、1960年8月28日(日)付の読売新聞(札幌)市内版に記事があった。

❝佐久間博信選手(石狩)の大会宣言で開かれた大会場の上空では第二航空団千歳基地のF86Fジェット機十二機の航空ページェントが行なわれ、救難航空隊のヘリコプターが花束を投下した。また花火を合図に三百羽の鳩と五千個の風船が空高く飛んだあと第一航空団浜松基地のアクロバットチームが五機のF86Fジェット機によってヒヤリとするような編隊飛行の妙技を次々と披露した。雨にたたられた第一日目だったが、ジェット機を動員した基地の町千歳ならではの歓迎ぶりをみせた。❞

 この記事によると、千歳市全域の体育施設でさまざまなスポーツ競技大会が実施され、演芸、音楽、郷土芸能の発表会も行われたようである。ブルーが飛んだ開会式は、同市内の青葉公園陸上競技場で行われた。青葉公園は、現在では千歳JAL国際マラソンが毎年実施されている地区である[2]。千歳基地航空祭に行ったことがある人には、基地正門手前の国道36号線西側、ホテルグランクラス千歳(旧・ホテル日航千歳)や千歳神社の裏手の森と言うと場所がイメージできるだろう。北海道全域から集まった選手団は市民が沿道に詰めかけた弾丸道路(現在の国道36号線)を行進し、大規模なアトラクションの開会式を催したのが記事から読み取れる。

1960年8月28日(日)付の読売新聞(札幌)市内版に残る「全道青年大会」の記事。札幌市内のトピックを報道する面なので、市外となる千歳市での大会への注目ぶりがわかる。

ブルー初の部外飛行での上向き空中開花の写真を発見

 そして幸運なことに、この初の部外展示飛行の写真が残っていた。1960年8月28日(日)付の北海道新聞朝刊には「大空に白煙のX ジェット機のアクロバット」の記事が載っている。その記事にはなんと、上向き空中開花を散開点真下から写したと見られる写真が載っているのだ。この演目は、現在はスター&クロスの前半部分の5機散開となっており、リカバリー後の星の描画と統合されて一体の演目となっているもの。F-86Fブルーでは、この上向き空中開花は4機ダイヤモンド編隊の散開を追って時差をつけてのソロの突き抜けという形の5機全機で実施されていた。記事の写真をよく見ると、空中開花に向かって上昇しているスモークの跡が2本見える。これは、4方向に散開するダイヤモンド編隊を追うソロ機のスモークがずれて写っているものと思われる。実際には5機による上向き空中開花だったのであろう。北海道新聞記者がソロ突き抜けの前に写真を撮り、そのままXマークとして記事を書いたのだろう。当時のブルーはナレーションもなかった時期なので、記者が思ったとおりに書いただけと想像される。写真には「アクロバット編隊の美しいX印の演技」とキャプションがついているのも、それを物語る。

 記事本文にはこのブルーのフライトは次のように説明がある。

❝(前略)みごとな離陸で飛び立ったと思うや、まず指揮官稲田三佐機が白煙を吹きながら百五十メートルの超低空へ。それを合図に編隊は高度百五十メートルから二千五百メートルのあいだで横転、逆転、急上昇、急降下など、秋雨一過、澄み渡った秋空いっぱいに秘術をくり広げた。
 最後は四機が急に編隊を解いて四方に散り、見事なX印を描き出せば、日ごろジェット機にはなれっこの千歳市民もしばらく空を仰いでウットリみとれていた。❞

 ブルーが正式編成された年の展示飛行である。初めて見たスモークを引いて飛ぶ様子が秘術と書かれるのも無理はない。記事中に「逆転」というナゾの記述があるが、伝わっている当時の演目から考えるとクローバーリーフ・ターンの機動を描写したのであろうか。記事の記述と上向き空中開花の写真とあわせて考えると、この展示飛行は明らかにアクロバット飛行の記録である。現在のブルーは航空自衛隊の飛行場がある基地以外では原則としてアクロは実施していない。アクロバット飛行には航空法による許可がいるからだ。許可するのは運輸省(現在の国土交通省)である。この青葉公園は発進基地となった空自千歳基地にほぼ隣接しており千歳飛行場の管制圏内だったので、このアクロバット飛行の空域許可には問題なかったものと思われる。

記念すべきブルーの初部外展示飛行での上向き空中開花。突き抜け機動のソロが編隊を追うスモークと思われる軌跡もちゃんと写っている(1960年8月28日(日)付の北海道新聞朝刊)。

 前述の『航空自衛隊千歳基地二十五年史』には、何もこの日の行事についての記述は無い。1968年の北海道博覧会での千歳基地所属24機での編隊飛行など、部外協力の祝賀飛行は年表にいくつか記録があり、写真が掲載されている事例もある。だが、それに先立つ1960年の地元千歳でのこの大イベントを、基地をあげて支援した事実が記録されていないのは残念だ。また、この大会の主催者(現在も当時も同じ団体が主催している)にも当時の記録を閲覧したいとメール連絡してみたが返信はなかった。

 現在ほど各種メディアも発達していない時代だ。ブルーの存在そのものもまだ北海道ではほとんど知られていなかったはずである(ブルーインパルスという名もなかった時期のはずだ)。この大会に参加した人は、ブルー最初の部外展示とは知らずに、驚きの目でショーを見たことだろう。その記憶もぜひ聞きたいところだ。

[1]主催者は北海道青年団体協議会
http://www.doseikyo.net/
[2]毎年実施されいる大会は2021年度で第41回になるはずだったが、新型コロナウイルス感染症拡大の影響などに伴い、前年2020年度の第40回大会に引き続き中止になっている。
https://chitose-jal-marathon.jp/info/第41回%e3%80%80千歳jal国際マラソン%e3%80%80開催中止の/

(文・ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄)