航空自衛隊浜松広報館に展示されていたF-86Fブルーインパルス解散記念モニュメントのS50.5.25展示部分

注)本記事は、小河正義ジャーナリスト基金助成金を受け、ブルーインパルスファンネットの調査研究部会の活動として、航空ファン誌の航空祭記事などでご記憶の方もおられるかと思いますが、サイエンスコミュニケーションの研究者やカメラマンとして活躍された藤吉隆雄氏により作成されたものです。不明点は継続して調査を進めますので、当時の資料や記憶がある方はぜひご連絡ください。
(注・ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸)

 今年2021年度のブルーは、コロナ禍ながら富山県、山形県でのイベントで祝賀飛行を行っている。このようなフライバイ展示は空自基地以外でもブルーを見られる好機だ。その視点でブルーの展示飛行リストを良くみるとF-86F時代で奇妙なことに気づく。空自基地もないのに展示飛行を毎年している都市がある。愛知県蒲郡市。名古屋から快速電車で約40分の港町だ。陸海空3自衛隊の基地が何も置かれていない蒲郡市ながら、1973、74、75年の3年連続での展示飛行が記録されている。当時の人口は8万人程度だったようだ。

 F-86F時代のブルーには545回の公式展示の記録がある。空自浜松広報館エアパークに飾られていたF-86Fブルー解散記念モニュメントで見た人もいるだろう。問題の蒲郡での3年連続飛行はこのモニュメントにもしっかり刻まれている。だが、この時期には、基地以外での展示飛行が連続して毎年行われている事例は蒲郡しかない。ブルーの各種ムック本に載っている記録では、1973年9月2日(日)の蒲郡市民フェスティバル、1974年4月10日(水)の蒲郡市制20周年、1975年5月25日(日)の幡豆町洲崎(水師会)とある。

 ブルーを祝賀飛行に招聘するなら、まずは公的イベントだろう。1973、74年のイベントは公的行事のような名前である。そこで蒲郡市役所の公表記録[1]を調べてみた。すると、蒲郡市広報誌「広報がまごおり」の行事告知記事にこの2件のブルー飛行の紹介と思われる記述があった。

ブルーが飛んだ記録がある1973.9.2蒲郡市民フェスティバル(左)と1974.4.10蒲郡市制20周年記念事業の告知記事(広報がまごおり1973.8.15号と1974.4.1号)

 同広報誌1973年8月15日号には「9月2日 みんなで参加しよう  愛の市民フェスティバル」との告知記事がある。そのなかに「特定な会場にとらわれない行事」として「自衛隊による祝賀飛行(予定)」の文字が見える。また同1974年4月1日号には、「市制20周年記念事業へ みんなそろって参加しよう」との告知記事がある。こちらには、「浜松航空自衛隊祝賀飛行は11:10から」という市役所広報誌での予告記述がある。少なくともブルー招聘と思われる記録が見つかった。さらなる資料を得ようと調べを進めたところ、当時の蒲郡市役所の記録文書や印刷物等は蒲郡市博物館に移管されているという。博物館に保存されている当時の記録には、この広報誌以外には航空自衛隊が登場したとの記述も写真も残されていないという[2]。

 確かに、1970年代はまだまだ写真技術のハードルも高かった。また、ブルーインパルスという難易度の高い被写体なので写真が残っていないのはわかる。しかし、展示飛行をした事実の文字記録が広報誌の報告記事に残っていないのは不思議だ。蒲郡でブルーは本当に飛んだのか。市役所と博物館に記録が残っていないため、メディアの記事をひもといてみることにした。

 全国紙の地方版、中日新聞などのブロック紙には、この3回の展示飛行の記事は見つけられない。国立国会図書館に収蔵されている愛知県地区の地方新聞にも何も記事は見つからない。そこで、蒲郡市立図書館にのみ収蔵されている蒲郡新聞を調べることにした。さすが基礎自治体レベルの規模の地元紙だけあって、1973年の市民フェスティバル、74年の市制20周年行事の記事を見つけた。ともに、盛大なイベントだったことが読み取れる。

 蒲郡新聞1973年9月1日(土)付に、翌日開催の市民フェスティバルの告知記事が出ている。詳細な行事予定が載っており、「当日雨の場合は(中略)祝賀飛行は中止」との記述があり、ブルーのフライトが予定されていたのが見て取れる。次いで同紙9月5日(水)付のレポート記事には「市民憲章推進愛の市民フェスティバルは、快晴の二日、市民体育館周辺で行われた。」とある。展示飛行についての記述はない。快晴ならばブルーが飛んだだろうと推測できるが証拠はない状態だ。

 対して、1974年の市制20周年行事の報道はどうか。同紙1974年2月20日(水)付には「二十才の蒲郡市祝う 市政映画も上映 四月十日を中心に二十一日まで」との記事で行事の計画が報道されている。このなかではすでに「記念祝賀飛行=浜松航空自衛隊などの飛行機が十日正午飛来(後略)」と紹介されている。同4月10日(水)付の当日告知記事でも同様に祝賀飛行は告知されており、キャンセルされた気配はない。

 そして、行事が終わった後の同紙4月13日(土)付には複数の市制20年記事がある。そのうちの一つは、「空からは飛行機が 町にパレード、市は祝賀一色」との見出しによる行事レポート記事である。

“ 一方午前十一時に市立図書館前をスタートした祝賀パレードは、(中略)市民会館まで演奏行進をした。
 この時上空へは浜松航空自衛隊が飛ばしたジェット機五機が、みごとな編隊を組み、五色の煙の尾を引いて祝意を表した。”

 この記述から、式典パレード中にブルーが展示飛行をしたのがわかる。そして、この蒲郡展示は5機デルタ編隊によるカラースモークでのフライバイだったと推測できる。おそらくワンパスのみであったのであろう。パレードの上空をF-86Fブルーがローパスだったとしたら、さぞや美しい光景だったに違いない。

蒲郡市制20周年パレードに登場したブルーを報じる記事(蒲郡新聞1974.4.13)

 1973,74年は蒲郡市の展示飛行については、両方とも公的行事に招聘されていた事実はわかった。また、1974年の市制20周年行事では実際に展示飛行をしたとの文字記録を発見した。しかし、1975年の展示飛行は、予告・報告ともに記録が見つからない。

 1975年展示飛行の手がかりは航空雑誌ムック本の展示飛行リストに載っている行事名「幡豆町洲崎(水師会)」だけだ。蒲郡市博物館でも1975年の展示飛行については情報ゼロで、水師会は何かわからないという[3]。しかし、「幡豆町洲崎」という地名のような記録は手がかりになりそうだ。

 調べてみると不思議なことがわかった。幡豆町とは自治体合併で消えた町の名であり、蒲郡市の西に隣接する現在の西尾市の一部だというのだ。そして、洲崎という地名は今も西尾市域内にある。名鉄蒲郡線こどもの国駅を降り、こどもの国とは逆に坂を下っていた先の港湾地区の地名である。もちろん湾に開けており、空域的には展示飛行はできるだろう。1975年の蒲郡市とされている展示飛行は、実は旧幡豆町で行われたのではないか。もしや、航空自衛隊の公式記録が間違っているのか?

 となると、やはりキーワードは水師会である。団体名称だとしたら旧軍、特に旧海軍関係の団体と想像される。なぜなら、F-86F時代のブルーでは、少年飛行兵14期来基(1972年9月4日)、海友会一行来基(1975年6月3日)といった旧軍関係者の視察対応とみられる公式展示飛行がいくつもリストされているからだ。

 そんななか、古書店ウェブサイトで「東海海軍連合会会報」という薄い冊子を見つけた。内容説明を見ると常滑海軍会の方の寄稿があるという。常滑海軍会といえば、1980年7月14日(月)に浜松北基地での来基展示飛行が記録されている団体だ。何かの情報があるかもと、さっそく購入してみた。そして、読んでみて大変に驚いた。なんと、1975年5月25日(日)の展示飛行が実施された行事の公式記録冊子だったのだ。

1975.5.25の第336回展示飛行の様子が2段目後半に書かれている(東海海軍連合会会報第1号P6)

 この冊子によると、当日、東海海軍連合会の第一回総会が日産マリーナ東海を会場に行われたという。東海地区の旧海軍関連団体の連合組織の発足総会というわけである。そのマリーナの場所は、まさに旧幡豆町洲崎の港湾地区である。この総会には高松宮殿下や当時の愛知県知事も出席して祝辞を述べ、海自の舞鶴音楽隊や護衛艦が派遣されたとある。いずれも写真入りの記事があり、盛大な式典だったことがわかる。ブルー展示飛行リストに残る水師会という記録は、実際は東海海軍連合会という名前だったのである。リストの記録は、行事名としても招聘団体名としても違っていたわけだ。だが、連合会の構成団体のなかに三重水交会という名がある。もしかしたら、空自への展示飛行申請を担当した団体が水交会(または似た名前の構成団体)であり、それが誤記されて公式記録に載ったのかもしれない。

 展示飛行の実際としては、この冊子の6ページ目に次の記述がある。

“(前略)又澄みきった紺碧の空に小牧第三航空団飛行隊並びに浜松第一航空団のブルーインパルスが相続いで祝賀飛行するという正に海、空、陸の三位一体となった総会会場(後略)”

 ブルーを招聘した団体の会報に、文字だけながら展示飛行した事実が記録されていた。写真がないのが残念だが、たぶん洋上をワンパスしただけなので撮影できなかったのであろう。というのも、同じ5月25日(日)にブルーは空自奈良基地でも公式展示飛行をしたと記録されているのである。浜松リモートでの奈良展示飛行からの帰投時に、東海海軍連合会総会のためにスモークオンでワンパスしたのではないかと想像される(または岐阜か小牧に展開して、そこからの帰投時かもしれない。もちろん浜松リモートで直接に旧幡豆町に飛んだ可能性もある)。奈良の展示飛行は335回目、問題の展示飛行は336回目と記録されているのだ。

 実は86ブルーの飛行リストでは他にも実際の展示場所が違うと思われるフライトがある。例えば、1964年8月26日(水)の岡山博覧会の展示場所はどのブルー・ムック本でも美保となっている。もちろん、これは空自美保基地を発進基地としたリモート展示が岡山県で行われたという記録であろう。だが、今回追ってきた1975年の蒲郡とされている展示飛行は、記録が間違っていると判断するしかない。蒲郡には滑走路がないので発進基地だった可能性はなく、実際の展示地も蒲郡ではないからだ。そして展示飛行をした行事名(または招聘団体名)すらも違って記録されている。

 さらなる情報を得ようと、当時から近年まで東海海軍連合会の会長を務めていた方が経営していた会社にメールで問い合わせてみたが、返信はなかった。また、常滑海軍会関係者への連絡ラインも探ってみたが、ほとんどの会員が物故したため会は10年程前に活動休止したという。日産マリーナ東海もすでになく、後継施設も閉鎖されている。果たして、1975年東海海軍連合会総会でのブルー飛行の写真を誰かが撮っているだろうか。もちろん、1973と74年の蒲郡市行事の写真も見つけたい。写真がないとしても、実際に行事に参加した人の記憶は聞きたいところだ。

[1]https://www.city.gamagori.lg.jp/site/kohogamagori/
[2]2020年10月27日(火)調査回答
[3]2020年10月27日(火)調査回答

(文・ブルーインパルスファンネット 調査研究部会 藤吉隆雄)