支援を超えて寄り添う 島民と隊員が共に歩んだ35日|第1師団

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名残惜しそうに見送る島民

防衛日報 2025年12月10日付


 10月に伊豆諸島・八丈島を中心に猛威をふるった台風22号・23号により島の生活に大きな影響が及ぶ中、陸自1師団(師団長・堺陸将)は同11日、東京都からの災害派遣要請を受け、直ちに八丈島における活動を開始した。給水、給食、物資輸送、加水・入浴支援と任務は多岐にわたったが、その根底には「島民の暮らしを守り抜く」という強い思いがあった。


 八丈島に到着した派遣部隊を最初に迎えてくれたのは、疲れが見える中にも「来てくれて、ありがとう」と語りかける島民の温かい言葉だった。


 隊員はそこで改めて、「この島のために必ずやり遂げる」という決意を固くした。


 給食支援が始まると、島民との距離は一気に縮まった。炊事車の前で子供たちが「今日のメニューは?」と声をかけ、温食を受け取った家族が「本当に助かります」と深々と頭を下げる姿があった。


 支援を続けるうち、島民と隊員の笑顔が並ぶ場面は日常となり、互いの名前まで覚えるほどの交流も生まれた。


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隊員と触れ合う子供たち


 今回の入浴支援は、町営温泉「ふれあいの湯」と連携した加水・入浴支援という、自衛隊として初の取り組みとなった。


 湯船では「やっと湯船につかれて、いやされるよ」とほほえむ人、入浴を終えた子供が隊員に向かって「また、明日来るね」と手を振る姿には、支援を越えた深い信頼が育まれていた。


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子供たちとの間に芽生え始めた信頼関係


 11月16日に行われた「感謝のセレモニー」では、島民が作る花道の中を幼稚園児から手渡された花束を手にした生活支援隊長を先頭に、隊員は一人ひとり島民とハイタッチを交わしながら進んだ。


 目に涙を浮かべ、「いなくなるのは寂しい」「次は旅行で来てね」と話す多くの島民の方との別れを惜しむ時間は、短期間とは思えない、濃く深い交流があった証しだった。


 八丈島での35日間、隊員と島民たちが支え合いながら歩んだ日々は、災害派遣活動の垣根を超え、確かな絆(きずな)と信頼を築く時間となった。


 1師団は「任務は完遂したが、この島で築かれた思い出とつながりは、隊員一人ひとりの胸に、これからも深く刻まれ続けていく」としている。


 八丈町(八丈島)への災害派遣活動は11月14日午後9時、最後の活動となっていた入浴支援が終了し、自衛隊はすべての支援活動を終えた。


 統合幕僚監部の11月14日の発表によると、10月9日、東京都知事からの災害派遣要請があり、その後の追加要請を受けて、陸自1師団が11日から開始。生活必需品などの物資の輸送や給水、給食、入浴支援などを実施した。


 期間中の活動部隊は、陸自=1後方支援連隊、1飛行隊、12ヘリコプター隊▽海自=横須賀地方隊横須賀警備隊▽空自=1輸送航空隊、3輸送航空隊。


 主な活動は、連絡員の派遣=東京都庁に4人、八丈町役場に17人▽給水支援=累計105トン▽給食支援=累計1万1600食▽入浴支援=累計2575人。このほか、人員・物資等輸送(東京都の作業員、支援物資など)、官庁間協力など。

<編集部より>


子供は「正義の味方」「ヒーロー」がとても大好きです。「強き者をくじき、弱い者を助ける」からです。弱っている人や困っている人がいたら、昭和30年代、ブラウン管などを通して一世を風靡(ふうび)した「月光仮面」(古くて恐縮です)の主題歌のように、「疾風(はやて)のように現れて、疾風のように去ってゆく」のです。

冒頭から「何の話?」と思うでしょう。その答えが防衛日報の本日(12月10日付)2面にあります。そこには、強きを蹴散らすわけではありませんが、弱きを助けるヒーローたちの姿がありました。

10月、伊豆諸島・八丈島を襲った台風22,23号で災害派遣活動を実施した陸上自衛隊1師団からの報告を紹介しました。「隊員と島民が支え合う確かな信頼を築いた時間」の見出しにあるように、1師団は生活必需品などの物資の輸送や給水、給食、入浴支援など計35日間にわたり、支援を続けました。1師団の視点はそれだけではありませんでした。島民とのふれあいから生まれたエピソード、笑顔などを織り込んでくれた上、寄せられた写真がとてもよく、紙面をつくる上でも助けられました。

滞在期間が長くなれば、島民と自衛隊との「距離」は縮まります。報告によれば、到着時に「来てくれて、ありがとう」、入浴を終えた子供から「また、明日来るね」…。こうした反応でした。これはほんの一部でしょう。感情が素直な子供たちにとっては、次第に隊員たちが正義の味方となり、ヒーローとなっていったことが思い出されます。写真には、こうした光景を表すカットがありましたので、すぐ採用を決めました。

活動を終えた隊員たちへの「感謝のセレモニー」では、子供たちが「ハイタッチ」をすれば、大人たちは涙を浮かべていたようです。国を守る自衛隊からすれば、当然の活動ですが、そこはお互い、人間。まさに絶望の淵に立たされ、弱っている人へ手を差し伸べることで自然と感謝の気持ちが生まれ、次第に会話が続き、濃密な時間ができ、子供たちにとっては憧れの対象になる―。そんな日々を重ねてお互いが過ごしたからに他なりません。

私事ながら、旧社在籍中、阪神淡路大震災(平成7年)では発生1週間後の交代要員として神戸市の避難所へ、仙台赴任中に被災した東日本大震災(同23年)でも、岩手県大槌町の避難所で被災者と接しました。どちらにも、隊員の姿がありました。発生から少し経(た)ったこともあり、コミュニケーションが構築されていたのかもしれません。「自衛隊のお兄ちゃん、お姉ちゃん」と呼び、肩車をしてもらい、じゃれあいをする子供たちの行動が、とても印象的だったことを記憶しています。

かつて、「東日本大震災で自衛隊員に親切にしてもらったから」と自衛官を目指すきっかけを話してくれた若い隊員がいました。これもまた、広報活動の一つと言えるものです。

明日のことをも想像できない被災者を支援することは、並大抵のことではありません。活動そのものだけでなく、心と心をつなぎ、相手の気持ちに100%寄り添う心構えを持つこともまた、欠かせないところかなと思います。

1師団の報告を読み、自衛隊の災害派遣活動にはさまざまな要素があることを改めて実感しました。