「硫黄島戦没者の碑」に刻まれた言葉。今もなお約1万1千柱の遺骨が島に眠る

 太平洋戦争が終結して今年で79年。国内外で激しい戦いが繰り広げられ、多くの戦死者を出した。その中でも屈指の激戦地である硫黄島(東京都小笠原村)は現在、自衛隊が管理し、一般人が立ち入ることはできない。今回は近海で実施された実機雷処理訓練の機会を得て、絶海の孤島を巡った。

海自硫黄島航空基地に到着するやいなや暑い日差しが突き刺さる

自衛隊機でかの地へ

 東京都心から南に1200キロ。小笠原諸島の南端に硫黄島は存在する。海上自衛隊厚木航空基地から海自の輸送機「C130R」で2時間半かけ、海自硫黄島航空基地に到着した。当日の気温は33度、湿度は90%のむっとした空気と強い日差しがわれわれを迎えてくれた。そして、まさしくその名の通り、温泉地のように硫黄のにおいが鼻をつく。

東京都都心から約1200キロ離れた硫黄島はまさしく絶海の孤島(画像引用・GoogleEarth)

 到着後、実機雷処理訓練の取材のために「釜岩」と呼ばれる岩壁から、ゴムボートで掃海艇「とよしま」へと乗り移る。その際、隊員から「水の入ったバケツに足を入れて砂を落としてから乗ってください」と促された。その理由について「私は信じませんが、硫黄島の砂粒を艦内に持っていくと、幽霊が出ると言われておりまして…」と語り、この行為は海自の習わしとのことだった。ゴムボートでの移動中はいや応なしに海水が襲いかかり、下半身はびしょぬれとなり、硫黄島での洗礼を受けた。

ゴムボートで島と掃海艇を往来した

激戦地とは思えない景観

 そして、いざ「とよしま」に乗艇。その日は一通り、実機雷処分訓練を取材。その後は硫黄島周辺海域に停泊する掃海母艦「うらが」の士官室で一夜を過ごした。夕食後、甲板に出る機会があり、そこから見える夕日や夜景は美しく、ここで日米両軍合わせて約2万8700人(このうち、旧日本軍の戦死者は約2万1900人)が戦死した場所とは思えないほどだった。

一日の終わりを告げる真っ赤に染まった夕日

漆黒の海に輝く月光。戦中は兵士たちも同じ景色を見たに違いない

島内には危険な場所も

島内を案内してくれた大山3海佐

 翌日も朝早くから掃海艇で取材をこなした。その後、島に移動し、海自の古参隊員である大山3海佐(51)の案内で激戦の地・硫黄島を巡った。大山氏の胸には検知器が装着されており、「場所によっては硫化水素が発生している所もあるので、外出する時には必ず携帯しています」と話す。それだけこの島は危険な場所が多数あるということをあらためて感じた。

 最初に訪れたのが「硫黄島戦没者の碑」。飛行場の近くにある丘に位置しており、日本返還後の昭和46年3月26日に建立された。米占領下では、小さな石碑しか設置することが許されなかったという。乾きに耐えながら戦地で散っていった兵士のことを胸に刻みながら「献水」し、哀悼の誠をささげた。

硫黄島戦没者の碑を訪れ、戦死者のことを思い「献水」

 現在も多くの遺骨が島に眠っており、本土への帰国を待っている。所管庁である厚生労働省が中心となり、遺骨収集事業を行っている。大山氏は「私も遺骨収集を手伝ったことはあるが、今も遺骨は見つかります。日本のために戦った方々を早く本土にかえしてあげたい」とおもんぱかった。

摺鉢山で島内一望も…

 島のシンボル「摺(すり)鉢山」にも登った。ここには2つの記念碑が建っている。47都道府県の石で日本列島をかたどった「戦没者顕彰碑」。

摺鉢山に設置された47都道府県の石でつくられた「戦没者顕彰碑」。兵士たちはふるさとのことを思い散っていったのだろう

 もう一つは米兵が星条旗を掲げる有名なシーンが描かれたレリーフを刻んだ「米海兵隊記念碑」。付近には戦死した米兵の遺品である個人認識票「ドッグタグ」が掛けられた通称「ドッグツリー」もある。

日米交流の一環として補修された「米海兵隊記念碑」。真っ白なペンキに塗り替えられていた

 

旧日本軍だけでなく米軍も多くの犠牲を払った

 これらの記念碑などは近年、著しく経年劣化していた。こうした中、6月に実施した米主催の多国間演習「ヴァリアント・シールド24」を機に、外壁の整備などが行われたという。同演習は自衛隊や米軍の各基地で空挺降下訓練や対艦、対空戦闘訓練などが実施されたほか、硫黄島では空港滑走路の復旧訓練が日米共同で行われた。

 摺鉢山の頂上では島内を一望できた。美しい海岸線に加え、島には青々とした緑があふれていた。だが、79年前には砲弾が飛び交うなどの激しい戦いが繰り広げられていたのだろうと想像すると、この景観を素直に直視することはできなくなってしまった。

美しい海岸線と多くの植物が生い茂る島内。かつての激戦の地とは思えないほどだった

 そんな思いを抱きながら島の西側に顔を向けると、異質なモノが目に飛び込んできた。激戦で沈没させられた船と思われる朽ちた残がいを発見。実は、米軍が硫黄島占領後に桟橋を作るために故意に沈めたコンクリート船と言われている。それが失敗して放置されたのだ。だが、その後の火山活動による海底の隆起で沈んだ船の大部分が海面上に現れたのだという。

米軍が占領後に沈めたコンクリート船が火山活動の影響で出現

激戦の地・硫黄島 現在は自衛隊が管理

島内には海自隊員や建設会社の社員らが常駐している(画像引用・GoogleEarth)

 硫黄島では昭和20年2~3月の間に日米両軍が激しい戦いを繰り広げた。以前は島民も住んでいたが、一部を残し多くは強制疎開を余儀なくされた。

 この戦いで旧日本軍側は約2万3000人のうち、約2万1900人が戦死。その致死率は約95%に上る。その一方で、米軍も約6800人の戦死者を出した。島のシンボル「摺鉢山」は、形地が変形してしまうほど、米軍側の艦砲射撃を受けた。また、海兵隊のモニュメントである兵士たちが星条旗を掲げる図のモデルとなったのも、この山だ。

 戦後は米軍に占領されたが、昭和43年の小笠原諸島返還で自衛隊が管理することになった。火山ガスが常に吹き上げるなど危険な場所も多いことから、墓参や遺骨収集での訪島しか許可されていない。遺骨収集についてはボランティアの遺骨収集団が年4回現地を訪れている。現在も約1万1000柱を超える遺骨が島に眠っていると言われている。

 島には現在、飛行場を管理する海上自衛隊の隊員に加え、道路などを維持管理するために上陸を許可された建設会社の社員ら約360人が滞在している。