**自衛官の家族を取材し、「絆」をテーマにそれぞれの家族の歴史、自衛隊との関わりを紹介するコーナーです。
第3弾は、海賊対処派遣を経験した3人の隊員とその家族のストーリーです。
海賊対処派遣を経験した隊員とその家族編
「自衛隊の海外派遣」。この言葉に皆さんはどんなイメージをお持ちだろうか。いつ頃始まり、どんな任務で派遣されているのか、実はその全貌や細部は一般的にはあまり知られていない。実際、海外ということもあり取材のハードルも高く、防衛省・自衛隊をかれこれ20年にわたり取材している記者にとっても、その実情はベールに包まれている。
今回、さまざまな条件をクリアし、過去にソマリア沖・アデン湾における海賊対処でアフリカのジブチ共和国に派遣された経験を持つ海上自衛官3人とそのご家族にお話を伺うことができた。ご協力いただいたのは、千葉県の館山航空基地に所在する第21航空群(群司令・石川一郎海将補)。対艦・対潜の哨戒ヘリコプター(SH60Kほか)や救難ヘリコプター(UH60J)などが配備されている海自の航空部隊である。部隊の任務・編成については、同群ホームページに「護衛艦部隊と一体となって、周辺海域の防衛警備(警戒監視)に従事するとともに、沿岸警備(不審船対処等)、離島からの急患輸送、大規模災害対処等に加え、海外においてはソマリア沖・アデン湾での海賊対処行動、国際緊急援助活動等を行っています」とある。
今では「アニメの聖地」に
大規模災害対処(災害派遣)というと陸上自衛隊のイメージが強いと思うが、第21空群は「令和元年房総半島台風」および「令和元年東日本台風」で災害派遣活動に従事。初めて「陸上派遣隊」を編成し、被災地に駆けつけた。その際に指揮を執った小俵(おどら)和之前群司令(在任期間2017年12月~2020年12月)が退職後、館山市の「ふるさと特使」に就任するなど、地域との結び付きも強い。
また、館山を舞台にしたテレビアニメ『戦翼のシグルドリーヴァ』に館山航空基地が登場し、ファンの間では「アニメの聖地」として観光名所・撮影スポットになっているという(もちろん基地内に許可なく入ることなどは禁止)。取材当日、記者もJR館山駅や基地に向かうバス、そして基地内で同アニメのポスターを見掛けた。今回、取材対応でお世話になった21空群広報室長の島崎3海佐に伺うと、「コロナの外出自粛も一段落して、館山はアニメとテレビのバス旅番組の影響で結構、観光客が戻ってきている感じがします」とのことであった。
海外派遣の先駆けは海上自衛隊
さて、今では普通のことになった自衛隊の海外派遣だが、その始まりはいつだったのか。歴史をひも解いてみると、1991(平成3)年、湾岸戦争後に海上自衛隊がペルシャ湾に機雷除去のための掃海部隊を派遣したのが最初である。その経緯についての詳細は省くが、湾岸戦争で多国籍軍側であった日本に対し、国際社会から「お金は出すが人員は出さない国」という批判的な声が多く、ペルシャ湾への部隊派遣によって日本はやっと関係国に認められるようになった。自衛隊初の海外派遣は「湾岸の夜明け作戦」と呼ばれるが、それは自衛隊の「海外派遣の夜明け」でもあったわけだ。
現在、自衛隊の海外派遣には国際連携平和安全活動や国連平和維持活動、ソマリア沖・アデン湾における海賊対処、大規模災害等における国際緊急援助活動、中東地域における情報収集活動などがある。それぞれ開始された年度は異なるが、こうした活動が活発になり定着していくのは、平成も中盤を過ぎたあたりからだ。ちなみに、21空群が海賊対処行動の派遣を開始したのは2009(平成21)年の3月。当初は在ジブチ米軍基地を基盤として活動していたが、2011年にアフリカにおける自衛隊史上初の拠点整備が行われ、以降は基盤を移した。
「令和4年版防衛白書」によると、ソマリア沖・アデン湾における海賊等事案の発生件数は2008(平成20)年にはじめて年間100件を超え、2011(平成23)年には237件に達していた。しかし、日本をはじめ関係各国の海賊対処行動により、2015年には0件、直近の3年間(2018~2021年)でも1件に抑えられている。
この状況について最近、過去に派遣対処部隊を現地で指揮した経験を持つ海自の幹部にお話を伺う機会があった。「2015年以降、海賊行為の発生件数がかなり減っていますが、まだ派遣を継続する必要がありますか」と質問すると、「確かに発生件数は抑えられていますが、それは護衛艦や哨戒機が護衛・監視を行っていることが大きいと思います。海賊行為の原因となっている周辺国の貧困問題や格差問題が解決されていない以上、いま護衛・監視をやめてしまえば、またすぐ元に戻ってしまうでしょう」との回答であった。日本は特に、この地域から石油などのエネルギー資源や鉱物資源の多くを輸入しており、一筋縄ではいかない問題である。
送り出す家族の胸の内は?
自衛隊の海外派遣への捉え方は、生まれた時代や入隊時期によっても異なる。若い隊員には、入隊動機に「世界を舞台に活躍したい」「国際貢献したい」という理由を挙げる者も多いが、年配の隊員は「まさか自分が海外に行くことになるとは」と話す者も多い。今回お話を伺った尾崎雄斗(おざき・ゆうと)3海尉、各務亨(かがみ・とおる)1海曹、松生尚人(まつおい・なおひと)2海曹とそのご家族も、年齢や派遣された時期、家族構成などまさに三者三様で、それぞれの置かれた環境や世代によって、感じ方や考え方に違いがあった。
例えば、「海賊対処でジブチに派遣されると聞いた時の率直なお気持ちはどのようなものでしたか?」という質問に対するご家族の回答はこうである。
結婚して間もなく夫を送り出すことになった各務1曹の妻・薫さんは、「辞める(定年)までに一度は海外派遣を経験したいという希望を持っているのをいつも聞いていたので、気持ちよく送り出しました。もちろんさびしさはありましたが、希望しても行けない人もいると聞いていたので、派遣されると聞いた時は『チャンスが巡ってきてよかったね』と言ったと思います」と振り返る。
一方、一人息子を送り出した尾崎3尉の母・真由美さんは、「正直、反対でしたよ。もう心配で心配で。危険な場所(紛争地域)ではないと聞いていましたが、『海賊対処』という言葉のイメージもあって、巻き込まれることもあるんじゃないだろうかと‥‥。母子家庭で私と息子だけの家族ですから、何かあったら困りますし、そもそも大学を卒業して『自衛官になる』と聞かされた時も、最初は『なんで?』と思っていましたから」と率直に気持ちを打ち明けてくれた。
結婚して約20年。2人の娘(派遣当時は2人とも高校生)を育てる松生2曹の妻・理加さんは、「普段の艦艇勤務でも何カ月も会えないことがあるので、海外派遣だからといっても特別なものとは思いませんでした。結婚当初から家にいないことが多かったので、海上自衛官というのはそういうものだと。娘たちもそうですが、私も通常の勤務の延長線という感じで送り出しました」と屈託なく話す。
隊員一人ひとりの歩みも、それぞれの家族の思いもさまざま。次回から、約6カ月の海賊派遣任務に就き、アフリカと日本で離れて暮らした3家族がどのように支え合っていたのか、どんな気持ちで過ごしていたのか、それぞれの家族のストーリーを追いかけていく。
次回は、昨年7月にジブチから戻ってきたばかりの各務亨1海曹に、現地での仕事について詳しく伺います。