東日本大震災はあす3月11日、発生から10年を迎える。当時、自衛隊はこの未曾有の大災害に対し、災害派遣態勢を強化し、より効果的な活動を行うため、発生から3日後の14日に陸海空の統合運用史上最大規模となる約10万人の統合任務部隊-東北(JTF-TH)を編成した。

 この部隊の指揮を執ったのが、当時の陸自東北方面総監、君塚栄治だった。「史上最大の作戦」といわれた空前のオペレーション。7月1日までの約3カ月半、指揮官として迅速に、そして的確に命令を発し続けた君塚の行動や思いを、インタビューなどで語った言葉とともに振り返る。(敬称略)

※写真は陸上幕僚監部広報室 提供

統合任務部隊-東北/ 君塚 栄治 指揮官

 君塚は平成21年7月21日、第34代東北方面総監に就任した。そのおよそ1年8カ月後の23年3月11日午後2時46分。三陸沖を震源とする最大震度7の大地震(国内観測史上最大のマグニチュード9.0)が発生する。

 震災後、産経新聞のインタビュー記事「話の肖像画」の中で、当時のことをこう振り返っている。

 「(宮城県沖地震が)今後30年間に99%の確率で起きる」と、マスコミが枕詞に使っている現実を見て普通じゃないなと。いつか来ると思っていたし、準備もしていた

 自衛隊のヘリコプターが、津波が押し寄せ、海沿いの町に流れ込んで陸地を飲み込んでいく映像を伝えた。その範囲は東北の太平洋側のほとんどに及んだ。想像をはるかに超えていた。君塚は心に誓った。

最終バッター、最後の砦

「(自分は)最終バッター。最後の砦。われわれの後はない。ここにいるのは運命だと思った。30数年間培ったノウハウ、キャリアをこの場にいることを運命と思ってすべて使い果たす。被災者のために尽くそう」

 そして、腹をくくった。「私の前には獣道はない。それでも私の後には道ができる。評価は後世の歴史に委ねる。思い切りやろう」

 執務室にベッドを置き、約2カ月間、そこで寝泊まりした。食事はほとんど缶詰だった。

 そんなとき、前線で活動を続ける隊員たちから「口内炎になった」という報告が相次ぐ。すぐさまビタミン剤を送った。食事がレトルト食品に代わっても隊員の便秘が続き、野菜ジュースやサプリメントを差し入れた。すべては「体がしっかりしなければ、作戦上、重大な欠陥となりかねない」という思いからだった。

徹底した「先憂後楽」

 隊員たちの多くは屋外の天幕で仮眠をとり続け、乾パンやレトルト食品でしのいだ。入浴は2週間に1度が当たり前だったという。そこには、君塚が隊員に徹底した「先憂後楽」の考えがあった。

 先に憂いて後で楽しむ。自分たちは冷たい缶詰飯をトラックの中で食べ、被災者には温かい食事を提供する―。被災者には先に楽をしてもらい、隊員には最後まで厳しい任務に邁進(まいしん)することを徹底させた。

船岡駐を視察する君塚氏

 遺体の扱い方も徹底した。「生きているように丁寧に扱い、すべて敬意を払ってやるように」と。

 自衛隊の任務はあくまでも生存者の捜索。だが、あまりの遺体の多さに警察だけでは対処しきれず、遺体の搬送や一時収容も行うよう指示した。収容所に運ぶ際は、1人の遺体につき隊員10人を配した。中には精神を病む隊員もいた。インタビューでは、隊員たちの心のケアはチームで、組織で十分やったとも話している。

隊員、部隊を誇りに思う

 米軍との調整も困難を極めた。「援軍」に対し、お互いの信頼感を確立するため、奔走した。

 当初、米軍から「ここの放射線量はいくつか」と聞かれ、陸自の基準以下だと答えても信用してくれなかった。連日、信頼感の醸成のためきめ細かく連絡を取り、結果の報告を繰り返した。

 「隊員の評価は国民がすること。被災者から『ありがとう』と言ってもらう言葉に表れているのではないかと思う。指揮官として、隊員、部隊を誇りに思う」

 退任が近づいたころ、君塚はそう述べ、部下たちに最大限の賛辞を贈った。

「勇将の下に弱卒なし」

 統合任務部隊は平成23年7月に解散。翌8月、君塚は第33代陸上幕僚長に就任し、陸上自衛官のトップとなった。東北方面総監からの異動は異例だった。

 君塚は陸幕長を2年務め上げ、25年8月27日付で勇退した。

   * * *

 東日本大震災の経験はその後の人生を決定づけた。

 退官後、防災をライフワークに掲げ、講演活動で全国を飛び回った。今後、巨大地震が想定される静岡県の防災アドバイザー(危機管理担当)にも就任。災害への準備と災害教育の重要性を説き続けた。「3.11」で10万人を指揮した男の言葉に皆、うなずき、感動し、感謝したという。

 しかし、病魔は容赦なく君塚の体をむしばんでいった。平成27年に入院。その年の12月28日、永眠。63歳だった。3日後の大みそかの告別式には、約300人が駆け付けた。

 「ややもすれば熱くなり、暴走しがちな仲間をいさめ、冷静に意見を集約してくれた。人間性のなせる業だったと思う」と同期入隊の寺崎芳治元陸将は故人をしのんだ。

 「勇将の下に弱卒なし」。1000年に一度と言われた巨大地震に立ち向かい、日本を護った君塚と自衛隊には、このことばが当てはまる。

プロフィール

 君塚 栄治氏(きみづか・えいじ) 昭和51年3月、防大卒(20期、土木)。陸幕演習班長、10特連長兼豊川駐司令、陸幕防衛課長、西方幕僚副長、1混団長兼那覇駐司令、陸幕人事部長、中方幕僚長兼伊丹駐司令、8師団長、防大幹事を経て平成21年7月、東北方面総監。23年3月11日に発生した東日本大震災では、約10万人からなる統合任務部隊の指揮官を務めた。同8月、陸幕長に就任。25年8月27日に退官後は、静岡県補佐官(危機管理担当)などに就任した。27年12月28日、死去。享年63。

統合任務部隊-東北(JTF-TH)

 統合任務部隊-東北(JTF-TH)「Joint Task Force-Tohok」の略。東日本大震災発生の3日後、平成23年3月14日に北澤防衛大臣(当時)が君塚陸自東北方面総監(同)に命じて編成された、災害派遣としても、3自衛隊の統合部隊としても初めての任務部隊。陸自の東北方面総監の指揮下にあったことから名付けられた。

 統合任務部隊は、同総監が指揮する陸災部隊、海自横須賀地方総監が指揮する海災部隊、空自航空総隊司令官が指揮する空災部隊で構成され、陸海空の統合運用により、行方不明者の捜索をはじめ、被災者支援のための各種活動を行った。

 また、福島第1原発の事故に伴う原子力災害派遣では、陸自の中央特殊武器防護隊を中核として、海空自の要員を含めた約500人が原発構内での放水活動などを行った(平成23年版防衛白書から)。

派遣部隊一覧

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