「永遠の図書室通信」も今回で50回。1年がだいたい52週らしいので、約1年コラムを連載してきたの!? と思うと自分でも驚きます。ましてやこれまで文章関係のお仕事をしたことはなかったので、なおさら不思議な気持ちでいっぱいです。

 さて、今回ご紹介するのはカテゴリ「人物」より、飯塚浩氏についてご説明しようと思います。「人物」棚はとっくの前に終わったはずでは?と思った方はきっと図書室通信を長く読んでくださっている方。そうです。あえて後回しにしておりました。

 それでは皆さん、飯塚浩という陸軍大尉をご存じでしょうか。

 おそらく知らない人の方が多いと思います。歴史の教科書に載っているわけでも、自伝が出ているわけでもない。ごく一般の戦争体験者です。

 そもそも永遠の図書室は、この飯塚浩氏が営んでいた薬局をリノベーションして作られたもの。当初はこの建物自体、シェアオフィスやシェアハウスとして活用する予定でした。(※現在、2階部分はシェアハウスとして活用中)
 薬局兼居住スペースを片づけていたところ、出てきたのは約3000冊の戦争関連の書籍、一次資料、手記などなど。「これを捨ててしまうのは勿体ない」ということで、その蔵書たちは「永遠の図書室」という場所で誰でも読めるように公開される運びとなったのです。

 では、そんな飯塚氏はどんな人だったのか、何をこの場所に残したのか?

 それを知っていただく前に、こちらの年表をご覧ください。下記は飯塚氏の生誕から、陸軍の軍人としての終焉までを記した年表です。それでは少し見てみましょう。

▼飯塚浩(1923-2017)略歴
(旧姓:黒川浩)

大正12年(1923)0歳東京都本郷区の医者の家に生まれる。
昭和2年(1927)4歳東京女子師範学校付属幼稚園入学
昭和6年(1931)8歳東京女子師範学校付属小学校入学
昭和7年(1932)9歳父逝去。
同年9月、東京を離れ、千葉へ。九重尋常高等小学校入学。
昭和11年(1936)13歳千葉県立安房中学校入学
昭和14年(1939)16歳陸軍予科士官学校入校(市ヶ谷台、第5期生)
昭和16年(1941)18歳陸軍予科士官学校卒業式。士官候補生となる。
同年、台湾第6部隊附に。8月15日、陸軍士官学校(第56期生)入校。
昭和17年(1942)19歳陸軍士官学校卒業。工兵第48連隊附となる。
昭和18年(1943)20歳1月~3月、陸軍工兵学校入校
4月1日、チモール島へ。
5月17日 陸軍少尉となる。
6月 第三中隊附となる
9月 暗号研修を行う
10月 下士官候補者隊教官となる
昭和19年(1944)21歳陸軍中尉となる
昭和20年(1945)22歳第16軍司令部参謀部附となる。ジャカルタへ飛ぶ。
6月1日 陸軍大尉となる。ジャワ転進。
7月末 ジャワ島にて橋破壊計画。
9月末 武装解除および復員に取り掛かる。
10月中旬 武装解除式
11月上旬 捕虜収容所にて労働
昭和21年(1946)23歳4月中旬 ガラン島へ移動
5月29日 内地へ帰還

 こうして見ると本当に波乱万丈です。ちなみに、内地帰還後大学に行ったり結婚してお子さんに恵まれたりと、戦後は素敵な人生を送ることになります。奥さんやお子さん、お孫さんと一緒に撮った写真を見ることも多いのですが、そのたびに「戦争で命が奪われることなく、長生きしてくれて良かったな」なんてしみじみ思ってしまいまいますね。

 蔵書を整理したり本の登録をしていると、氏本人が書いた買い物メモや日々のなんてことないことを書き留めたメモを見つけることもあります。また、こっそり隠してあった切り抜きや本を発見して苦笑いすることも。そのたびに「この人とお話してみたかったなあ」なんて思う店番なのです。

 亡くなった人に会う、というのは難しいこと。しかし、「亡くなった人を思い、その軌跡を辿ること」は誰にでもできること。かの人が残した資料や手記を読み、端々に故人を感じることこそ時を超えた出会いだと思っています。それは飯塚氏だけではなく、近代史を生き、「なにか」が残っている人物すべてに言えることです。
 近代史はいまと一番近い歴史。いつだって尋ねることができる、唯一無二の歴史なのです。

 それでは今回もさっそく棚を見ていきましょう。最終回でも通常運転で本の紹介をさせていただきますね!

 まずご紹介するのはこちらのファイル。かなり分厚いこのファイルの中には、昭和14年、市ヶ谷台への入校~終戦とその後の生活について語られた手記が収められています。2冊併せてなんと驚異の1132ページ!まとめれば本ができてしまうのではないでしょうか。

画像1: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 目次、ページ数も振られており、かなり見やすい造りになっているのもポイント。なまじエピソードが多いので、もし読みたいエピソードだけを抜粋して読むのならば目次に目を通すのは必須です。ちなみに、予科士官学校時代のものだけ読もうとしても、その内容は学科や校外学習について、思い出やエピソードなど多岐にわたるので、「飯塚浩という人物の軍人時代のことをすべて知りたい!」という人は、何日にも分けてちょっとずつ読み込むことをお勧めいたします。
 ちなみに他にも台湾に赴任した時のエピソードや当時の情勢を振り返ったもの、士官学校で受けた教育や出征、現地の食べ物や兵隊の衣食住といった細かい部分、ジャワ・チモール記、入学試験や作戦行動などといった、戦争に関わった8年間の青春の記録がこのファイルにすべて収まっております。当時ならではの思想や着眼点なども要チェック。

画像2: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 しかし記憶が新しいうちならまだしも、年数が経ったにも関わらずこの量を書ききってしまうというのは、傍から見ると誰にもできない凄いことではあるのですが、様々な書籍を読んできた身からすると「飯塚氏もまた、喉に小骨を残してきた人物のひとりであるのかな」なんて思うのです。
 戦争は経験した誰もにとっての傷ではありますが、兵隊たちにとっては青春でもあります。「それ」に向かって全力で進んできた、すべてを否定することのできない青春時代であるわけです。燃え尽きるまで進んでいた彼らが、死ぬ前に水をかぶせられて火を止められたとしたら。それに安心する者もいれば、「どうして燃え尽きさせてくれなかったんだ」と思う人もいるでしょう。そうしてきっと、そんな完全不燃焼の感情をどうにか焼き切るために回想し、文字にし、作品にすることであの日の自分を燃やし尽くし、心のしこりを取るのではないでしょうか。
 戦地について、戦争についての姿が知りたい人も、「一兵士はどんなことを考えて戦争に行ったのか?」という精神面を見たい人も。ぜひ当館にお越しの際は一読していただけたらと思います。貴重な一次資料です。
 (ちなみにこの手記の中からかいつまんで朗読させていただいたものがYoutubeチャンネルでお聞きいただけます。遠方の方や気になるけどなかなか足を運べないという方、ぜひお聞きいただければと思います)

 さて、次に紹介するのはこちら。

画像3: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

「チモール戦記」
 あるところに、インドネシア語が得意な軍曹がおりました。その軍曹は終戦後、滋賀県でインドネシア美術研究所を開き、伏木南國と名乗り生活していたのだそうな。
 そんな伏木南國氏が書いた著書の一部がこの「チモール島戦記」。フリーペーパー風の手書き本なので読みづらい人もいるかもしれませんが、手書きな分熱量と言いますが、ダイレクトな感情や描写を感じることのできるシリーズです。
 しかも伏木氏の書いたチモール島戦記、なんと飯塚氏についての記述もあるのです。何を隠そう伏木氏は飯塚氏と同じ第三中隊にいた身。手記だけでは補えない第三者視点があるというのはかなり貴重です。
 その一部をちょっと見てみましょう。

(1)昭和十八年六月の頃
バグナシ椰子林内、衛生所。
「気を付け」一人の見習士官、車を降りてつかつかと、三好衛兵司令の前に立つ。
「工兵第三中隊は此処か。」「はい、そうであります。」「御苦労。」
きびきびとした其の動作。「映画スターの様な見習士官だぞ。」
衛兵所内は大騒ぎ。

・三好軍曹の述懐(※なお、伏木南國氏の本名は三好和雄である。)
(前略)新任の黒川少尉も中隊の作業に漸く慣れて大いに働いていた。
黒川少尉は、きりっとした男らしい軍人である。映画スターの様に、奇麗な眼をして居り其の動作はきびきびして、連隊一の美男子であった。
バウマタでは野戦病院の構築の為に活躍された。
彼は孤独な眼で、遥か空の彼方を「じーっ」と見ていることがしばしばであった。

・伏木氏から飯塚氏へのお手紙
「若い頃は、インドネシア、ジャカルタの娘さんが放って置かなかったのと違いますか。今でも昔のまま、きれいな眼をなさっているでしょう。」

 ちなみにこちら、全部飯塚氏の手記に書いてあります。飯塚氏はそのあと「いささか褒めすぎの感があるが、(伏木氏の書いた)本の中の抜粋で、けして意図的な追従ではない」と書いてあります。照れていなさる。そしてちょっとまんざらでもなさそう。
 ここだけ見ると伏木氏についての情報が、「飯塚氏のことを尊敬している昔の仲間」(このキラキラフィルターぶりを見ていると「推し」という表現が合う気もしますが……)だけに思えますが、彼の凄さはそこではありません。
 先ほど「フリーペーパー風の手書き本」と言いましたが、本当に全部手書きです。起こった出来事や主観、について語るだけではなく、地図やチモール島にあった工芸品、家々の造りチモール人そのものについてや作戦等が手書きの文字と手書きのイラストによって記されています。

画像4: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 字は本当に多いのですが、絵があるだけで親しみやすさとわかりやすさが跳ね上がるものです。しかもこの絵、ご覧になってもらえるとわかるんですが、とにかく上手い。緻密さと味があるイラストのおかげで緩急を付けて読み解くことができます。

 当館にある伏木氏の資料はほかにも数多くあり、ジャワ上陸と当時の軍政・民政についてまとめたもの、観光用に刷られ、チモール島をはじめとしたインドネシアについて紹介していく「南国タイムス」などなど、インドネシアについて楽しく知ることもできる資料も盛りだくさん。戦記・戦時中の描写もとても細かいので、こちらもぜひ目を通してほしいシリーズです。同じ隊なだけあって飯塚氏の手記で見かけた名前もちらほらと顔をのぞかせているので、セットでご一読ください。

 ちなみに伏木氏の営んでいた「インドネシア美術研究所」ですが、今調べても情報が全く出てこず……もしご覧になってくださる方で「もしかしたら知ってるかも……」と思い当たる節がある方がおりましたら、ぜひ伏木氏の製作した戦史・インドネシア観光誌に在りし日の研究所を見ていただきたいですね。
 なお陸軍士官学校第56期生であるため、同期生名簿や在籍していた偕行会の会員名簿、同期生追悼文集などといったものや台工・工兵第四十八連隊第三中隊戦友会の集会のお誘いや名簿(第三中隊なので先ほど記述した伏木氏もおります)といった資料もございます。「祖父が第56期生だった」「第四十八連隊にいたかも?」など、もし調べたい人物が条件に該当する場合は調べることが可能ですので、そういった用途でもぜひともご利用ください。

 また、読書家であり筆まめであった飯塚氏は、そのマメさを別方面にも発揮しております。それが大量のスクラップブック。戦後すぐから平成27年まで、己の記録と新聞や雑誌の切り抜きを貼り付けた本がたくさん所蔵しております。まさに見る歴史!こちらは裏方のお部屋にあります。一日いても見切れない量ですね。

画像6: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 なので当時の戦争関連のコラムや記事の切り抜きなども遺しており、まだ戦争が歴史ではなくすぐそばであったこと、としての言葉やコラム、解説などもあります。なかなか他では見られないものかと思うのです。

 また、当時実際に使われていた教科書類があるのも見逃せませんね。予科士官学校・士官学校時代の教科書、工兵学校時代のものと思われる、工兵の基本作業についての教科書もあります。ちなみに教科書の一番初めのページには校長先生のお名前が書いてあるのですが、なんと昭和14年の予科士官学校の校長はなんとあの牟田口廉也。第二十七回「戦地 インパール・ビルマ」でも紹介しましたが、まさか校長先生をやっていたとは………誰より規範となるはずの人間が4年後にやらかすとは、本人も周囲も思っていなかったでしょうね。

画像7: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 ちなみに教科は国語や数学といった現在も見かけるものから、兵器・馬学・軍制学といった専門的なものまであります。そしてそのひとつひとつのレベルが高い!当時の軍人の卵はこれを全部頭に叩き込んでいたのか……と思うと感服の二文字でございます。現在の教科書とどこかどう違うのか、または現在との類似点などを見つけてみるのも面白いかもしれません。

画像8: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 ちなみにその中には作戦要務令もあります。そして「あの」戦陣訓も同時収録されています。このコラムの中で何回も出てきたワードですが、まさか最終回に本物とご対面できるとは。なんとなく奇縁のようなものを感じますね。結構綺麗に残っているあたり、戦陣訓に腹立ててビリビリにはしなかったようで………それと実際にページになっているところを見るとわかるんですが、案外長い。起きた瞬間これを奉読してたのか……と思うと、当時の軍人さんの喉と疲れをつい想像してしまいます。

 それでは最後にご紹介するのはこちらの日記。

なんとこれ、昭和6年~7年までの日記です。飯塚氏、小学生時代の記録です。皆さん、小学生時代の日記って取ってありますか?私は捨ててしまったか紛失したか覚えておらず、多分これを読んでくださっている人の多くはそうかと思います。だからこそこの日記の価値は大きく、「よく取ってあったよな……」の気持ちがさらに強まるのです。

 さてそんな中身ですが、

「十二月十二日 新聞をのぞくよ内かくそうり大臣がかはって、犬かいさんがそうり大臣になったそうだ。どうしてそんなに早く(総理大臣が)かはるんだらう。ふしぎでしょうがない」

 とさらっと大きなことが書いてあったり、軍歌を歌いながら登校したり、靖国神社に行って肉弾三勇士の写真とメダルを買った、などなど戦火の燻る時代に生きていることを理解させられる箇所が多くあります。

画像10: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

 また、この年頃にして旧漢字を多く使い、文章の構成も達者なのも驚きます。自分が同じ年ごろの頃ここまで書けたか?とつい現代と比較してしまいますが、多分教育の土壌からすでに違ったのでしょうね。幼いころからレベルが高いことの一点を見て、当時の教育と現在の教育を比べるのはナンセンスですが、それにしてもすごいよなあと感心してしまいます。

 しかし、この日記を見て小学生のご来館者様が言いました。

 「今の私たちとあまり変わらないね。」

 そうなのです。文章のレベルが高くても、戦争や軍の匂いがそこかしこからしても、当時の彼はひとりの小学生。「雨だったので家で絵を描いて遊んだ」「遠足の日の天気が心配だからてるてる坊主を作った」「セーターを買ってもらって嬉しかった」「二年生と喧嘩してしまったけど、僕が悪いと思ったから謝った」などなど、ひとりの子供として小学生ライフを満喫しているのです。
 生きている時代や境遇が違っても、人は皆子供から始まります。子供だった頃の日記を現代に生きる子供たちが見ることで、時を超えた交流ができるのではないかと思うのです。

 現代を生きている皆さんが書いた日記や本は、いつかの未来で研究の手助けになったり、資料館で展示されたりするかもしれません。実感がないかもしれませんが、今自分が書いたものや記録はすべて一次資料として、いつか大きな価値になるものなのです。すべて取っておくと大変な量にはなってしまいますが、できるだけ保管しておくといいかもしれません。

 近代に書かれた直筆の資料や本、手紙というのは当時の背景を知る重要な資料です。大切に持っていてほしい気持ちが多くあるのですが、それでもどうしていいかわからない時は永遠の図書室へどうぞお持ちください。

 永遠の図書室は歴史という名の過去を未来へつなげていく場所であり、本や資料という媒体から当時へタイムスリップできる場所です。4200冊を超える蔵書や資料、手に取って見ることのできる寄贈品や当時の軍装品などが並ぶこの場所で、皆様のお越しを心よりお待ちしております。

画像11: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

さいごに

 さて、長らく連載してきた「永遠の図書室通信」も今日で最終回。

 まさかぴったり50回というキリの良い数字で終わるとは思わず、書きながらちょっとびっくりしております。(途中の特別編などは完全に思いつきでやっていたので)

 私自身、近代史のことはそこそこ知っていると自負してきましたが、このコラムを書くにあたって間違えるわけにはいかないと、テーマの下調べをしたり本を読みこむ中で自分の知識なんてまだまだ氷山の一角でしかなく、近代史は狭いけれど深くて広い、そんな奥深い時代なのだと気づき、また勉強にもなりました。

 コラム連載の手助けをしてくださった防衛日報社のI様、本当にお世話になりました。いつも応援し、励ましてくださり、文章や素材のレイアウトを綺麗に整えて見やすくしてくださり、誠にありがとうございました。ここまで来られたのも、ひとえにI様のおかげです。

 そしてこの連載を読んでくださった皆様には感謝をしてもしたりません。ここまで読んでくださったことが本当に嬉しいです。ありがとうございました。

 それではいつかまた、永遠の図書室で会いましょう。ごきげんよう!

アクセス

画像12: 永遠の図書室通信 第50話「人物・飯塚浩」(終)

永遠の図書室
住所:千葉県館山市北条1057 CIRCUS1階
電話番号:0470-29-7982
営業時間:13時~16時(土日祝のみ17時まで) 月火定休日
システム:開館30分までの滞在は無料、それ以降は一時間ごとに500円かかります。
駐車場:建物左側にあります、元館山中央外科内科跡地にお停めできます。
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