自衛隊の新時代を切り開く女性自衛官たちの活躍に67年の歴史を持つ自衛隊専門紙「防衛日報」が独自取材で迫ります
 
キラリ☆輝く女性自衛官 ~ 小野打泰子空将補(第4術科学校長兼熊谷基地司令)編

 階級社会である自衛隊において、現在、海上自衛隊の近藤奈津枝海将補とともに女性自衛官で最も高い地位にいるのが、今回ご登場いただく航空自衛隊の小野打泰子空将補だ。つまり、女性自衛官の出世頭である。

 自衛隊の階級は、表のように細かく分かれているが、将補の上には幕僚長と将(陸海空自でそれぞれ陸将、海将、空将という)しかいない。ただ、幕僚長というのは将官の中の役職であり、厳密に言えば階級ではないので、将補は階級としては上から2番目ということになる。

画像1: きっかけは「007」(1/4話)

 自衛隊の長い歴史の中でも、将補になった女性はまだ5人しかいない。営門(かつてあった、退職日に将補に昇進した上で退官する「離職時特別昇任」)と医官を除くと3人。小野打司令は、航空自衛隊では2人目の将補である。

【女性の将補一覧】

氏名階級将補への昇進年月日
※佐伯 光海将補2001年(平成13年) 3月27日(医官)
※梶田ミチ子空将補2007年(平成19年)12月3日(退官日に特別昇任)
※柏原 敬子空将補2011年(平成23年) 8月 5日
近藤奈津枝海将補2016年(平成28年)12月22日
小野打泰子空将補2018年(平成30年) 8月 1日
※はすでに退官(2021年9月7日現在)

 そんな「女性自衛官のトップ」にインタビューする機会をいただき、少々緊張しながら小野打司令が指揮を執る航空自衛隊熊谷基地にお伺いしたのは、7月下旬のこと。3年前(2018年)の同月には、日本最高気温41.1度を記録したこともある熊谷市はこの日も猛烈に暑かったが、目の前に現れた小野打司令は、外気とは真逆の冷静沈着な指揮官のたたずまいで、こちらが恐る恐る繰り出す少々ぶしつけな質問に対しても、至ってクールに、そしてNGなしで回答してくれた。

 また、今回は貴重なお写真もたくさんご提供いただいたので、それらも踏まえ、自衛隊や時代の変化も振り返りながら、女性自衛官として未踏の領域を切り開いて来た小野打司令の歩みをたどってみたいと思う。

画像: 小野打泰子空将補(第4術科学校長兼熊谷基地司令)

小野打泰子空将補(第4術科学校長兼熊谷基地司令)

画像2: きっかけは「007」(1/4話)

 小野打司令が青山学院大学を卒業して幹部候補生として航空自衛隊に入隊したのは、1987年(昭和62年)の3月。もちろん、その当時は女性の将官はまだ一人も誕生していない。そこで、率直な疑問をぶつけてみた。

――入隊したとき、階級社会である自衛隊で自分がここ(空将補)までくるイメージは多少なりともありましたか?

小野打 入隊した時は、そもそも自衛隊の組織がよくわかっておらず、どこまで出世するかとかは遠すぎて考えていなかったと思います。昇任は運や偶然が大きく影響すると思いますが、組織が与えてくれたポストで全力を尽くし、責任を果たすべきと思ってやってきました。

 確かに、当時(昭和の終わり)は自衛隊が女性を積極的に採用しようとしていたわけでもなく、インターネットもない時代で、自衛隊の情報自体が今よりキャッチしづらい状況だった。身近に自衛官がいる場合や「軍事オタク」でもない限り、大学生で自衛隊の組織や階級を深く理解している人はほとんどいなかっただろう。

 では、そもそも小野打司令と自衛隊を結び付けたものは何か。まずはそのあたりから探ってみることにしよう。

 小野打司令は、高度経済成長の総仕上げとして、1回目の東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)年、東京で生まれた。日本も東京も人口は増え続けており、学校のクラス数も、児童・生徒の数も多く、良くも悪くも(?)活気に満ちていた時代である。

画像: 小学校時代(右から2番目が小野打司令)

小学校時代(右から2番目が小野打司令)

 上は1970年代、小野打司令が小学校時代の写真である。もちろん昭和という時代の雰囲気は感じさせるものの、やはり東京の小学生は、田舎の小学生とは違って垢ぬけている。

 自衛隊で1970年代といえば、作家の三島由紀夫が市ケ谷駐屯地で割腹自殺をしたのが1970年(昭和45年)11月25日の出来事。この当時、自衛隊には、まだまだ女性を寄せ付けないマッチョな雰囲気が漂っていた。

画像: 中学生時代、ピアノの発表会で

中学生時代、ピアノの発表会で

 中学生時代の小野打司令は、ピアノをたしなむおしとやかな(?)少女。この写真の雰囲気からは、まだ自衛隊との接点は見えてこない感じだが、実はこの頃、すでに自衛官を志す大きな動機が心の内に生まれていた。

画像3: きっかけは「007」(1/4話)

「自衛官になろうと思ったきっかけは何ですか?」の質問に、小野打司令はこう即答した。

 子供の頃、「007」が好きで、国際社会において情報戦を繰り広げるスパイになりたかった。(小野打司令)

 若い皆さんのために解説しておくと、「007」とはイギリスの作家イアン・フレミングが生み出した英国秘密情報部のエージェント(国際スパイ)のコードネーム。特に映画シリーズは圧倒的な人気を誇り、1作目の『007/ドクター・ノオ』(1962年公開、初公開時の邦題は『007は殺しの番号』)、2作目の『007/ロシアより愛をこめて』(1963年公開、同『007/危機一髪』)の大ヒットで、日本だけでなく世界中に「スパイ」ブームを巻き起こした。

 続く『007/ゴールドフィンガー』(1964年公開)、『007/サンダーボール作戦』(1965年公開)は2年連続で興行収入1位を獲得。『007は2度死ぬ』(1967年公開)は興行収入では2位だったが、シリーズ有数の名作と評価されている。

 その後もシリーズは続き、今日まで24作品が公開され(25作目が10月1日公開)、「シリーズもの」としては歴代6位の興行成績を残しているそうだが、中でも60~70年代における子供たちへの影響力は計り知れないものがあった。

 記者は小野打司令と同世代なのでよく覚えているが、当時はヤクザ映画を観た後、男子の多くが肩で風を切ってガニ股で歩くと言われ、ブルース・リーの映画を観た後は、なぜかみなカンフーの使い手のようになっていた。それほど分かりやすくはないにしても、確かにスパイ映画を観てスパイに憧れる男子は多かった。『スパイ大作戦』というテレビドラマも人気で、「スパイごっこ」や「探偵ごっこ」も大流行。トランシーバーは子供たち(主に男子)に大人気だった。

 当時は米ソを中心とする東西冷戦の真っただ中であり、スパイの暗躍にもリアリティがあった。中高生ともなれば、多少は国際情勢にも関心を持ち始める。しかし、まさか女子にまでこれほど決定的な影響を与えていたとは、正直意外だった。

 小野打司令と自衛隊の接点がわずかながら見えてきたところで、第1話は終了。自衛隊でのさまざまな経験については、次回以降たっぷりお届けする。

▷▷ 次回は、入隊までの経緯、入隊当時の航空自衛隊の雰囲気などを振り返っていただきます(会員限定コンテンツ)。

▷第1話 第2話 第3話 第4話

プロフィール

空将補 小野打泰子(おのうち・やすこ)
第4術科学校長兼熊谷基地司令
昭和39年生まれ

【主な経歴】

昭和62年 3月航空自衛隊入隊(第77期一般幹部候補生(一般))
昭和63年 2月航空資料作業隊兼航空幕僚監部調査部
平成9年 4月航空自衛隊幹部学校入校(第45期指揮幕僚課程)
平成10年 3月北部航空方面隊司令部情報班長
平成11年 3月情報本部分析部分析官
平成13年 3月航空幕僚監部調査部調査課計画班員
平成16年 4月作戦情報隊第1警戒資料処理隊長
平成17年 4月航空幕僚監部調査部調査課情報2班長
平成19年 8月航空自衛隊幹部学校入校(第52期幹部高級課程)
平成20年 3月統合幕僚学校入校(第4期統合高級課程)
平成20年 8月航空幕僚監部情報課計画班長
平成21年12月西部航空警戒管制団基地業務群司令
平成23年 2月航空幕僚監部情報運用室長
平成25年 3月航空教育隊第1教育群司令
平成26年 3月航空幕僚監部総務調整官
平成28年 4月航空教育集団司令部総務部長
平成29年 9月第6高射群司令
平成30年 8月統合幕僚監部報道官
令和元年 8月現職

This article is a sponsored article by
''.