いよいよ東京2020オリンピック開会式当日まで1週間となった。ブルーインパルスが1964年の東京オリンピック開会式以来57年ぶりに東京の空にオリンピックシンボルを描く。

2020年のオリンピックが東京に決まったのは日本時間で2013年9月8日の早朝だった。その速報はその日の百里基地航空祭に向かう車中でラジオから聞いた。あいにくの雨模様で、その日のブルーインパルスの展示飛行は地上滑走のみとなったが、ナレーションでは、東京2020決定への祝辞と、もし要請があれば、東京1964の大先輩たちに負けないよう、大会に華を添えられるよう益々訓練に邁進する、という決意の言葉が込められた。2013年9月といえばブルーインパルスが東日本大震災当日に展開していた芦屋基地からホーム松島基地へとやっと帰還して、半年しか経っていない時期だ。あの日は“復興の翼”ブルーインパルスに新たな目標が授けられた日でもあった。

画像: 2020年3月、松島基地における聖火到着式予行で描かれたオリンピックシンボル

2020年3月、松島基地における聖火到着式予行で描かれたオリンピックシンボル

あの東京2020決定の朝から2875日目、ついにブルーインパルスがオリンピックシンボルの五輪を描く日が来たのだ。その2875日の間、ブルーインパルスは着々とその準備を進めてきたと思われる節がある。SAYONARA国立競技場イベントでは都内と国立競技場上空を飛行し、東京国体では夕刻の味の素スタジアム上空を飛行した。それら展示飛行の経験は、ラグビーワールドカップ日本大会開幕式や医療従事者への敬意と感謝を示すフライトに活かされたが、それだけにあらず、東京2020オリンピック開会式のシミュレーションだったと言われている。

画像: 2014年5月のSAYONARA国立競技場展示飛行予行より防衛省前にて

2014年5月のSAYONARA国立競技場展示飛行予行より防衛省前にて

東京1964と2020の開会式は開始時間が異なる。1964は午後の日中であったところが、2020では夜の20時からだ。1964では、ブルーインパルスの五輪描画開始は15時10分20秒に設定されていた。定時定点到達は航空自衛隊のお家芸ともいえる飛行技術であるが、そのTOT(Time Over Target=目標到着時刻)が式典の進行によって遅れることは当然想定されることだ。地上からその遅れを無線連絡して時間調整が行われるが、松下治英編隊長がNHKラジオの実況中継を機上で聞いて進入のタイミングを計った時間調整は草創期のブルーインパルスによる職人芸であり神技だったと言える。

2020で式典の進捗やそれに伴う実際の描画時刻を伝えるのは地上の飛行指揮所からになるが、基本となる時間調整技術は当時も今も同じだ。舵円を描く「ホールディング(空中待機)パターン」は4分で描かれ、直線を1分、半円を1分、直線を1分、半円を1分で、これを合わせて4分となる。この直線の1分を短くしたり長くしたりして、目的地点への到達時刻を秒単位で調整するのだ。

画像: 図1:定時定点必着を達成する空中待機方法

図1:定時定点必着を達成する空中待機方法

1964の時間合わせを神技と書いたが、2020の時間調整も基本は同じとしつつ高度な練度と技術が要求される。現在の三代目T-4ブルーインパルスは、この飛行技術を使って、長野五輪開会式において、レベルオープナーという(冬の雪雲を想定して低高度で実施できる五色のラインを扇に開く)課目で、小澤征爾指揮「第九交響曲」の終了にピッタリと合わせて会場上空を通過するという偉業を成し遂げた。

『2019年2月11日 【説明しよう!】「定時定点必達!!!」その2(ブルーインパルスファンネットFacebookページより』
https://www.facebook.com/412165392221642/posts/1795341533904014/

東京2020開会式は夜20時開始でブルーインパルスは展示飛行ができない、との指摘も見られたが、ある意味その通りである。ブルーインパルスの飛行は原則として昼間のVFR(有視界飛行形式)を前提とするから、夜間飛行(日没から日出まで)での展示飛行(着陸を含む)は行わない。

ブルーインパルスの東京2020開会式“当日”のフライトは、離発着拠点となる(であろう)入間基地に日没までに帰投できる日中になる。聖火が国立競技場に入るタイミングなど、聖火リレー関連セレモニーに合わせて、遅くとも夕刻までの日中に五輪を描くとみられる。

画像: 2013年9月、夕刻の東京国体開会式の味の素スタジアムにて

2013年9月、夕刻の東京国体開会式の味の素スタジアムにて

五輪の描き方も1964と異なる。機体が1964当時の初代F-86Fから二代目T-2を経て、現在三代目T-4となったブルーインパルスは、飛行特性も性能も違うT-4で新たな方法でオリンピックシンボルの五輪を描く。そして三代目T-4は、初めてエンジンまで含めた純国産のジェット練習機だ。その純国産機でオリンピックシンボルを描く意義は大きい。

画像: 図2:オリンピックシンボルの描き方の違い(上から見た図)

図2:オリンピックシンボルの描き方の違い(上から見た図)

1964と2020では五輪の描き方も違う。1964が横から五機で入ってきたのに対し、2020は縦から“六機“で入ってくる(細部では高度、旋回半径、旋回方向も異なる)。五つの輪であるが、六機で描くのだ。先頭を行く隊長機は、続く五機の基準点となり、五機が一層確実なポジションを取れるよう、進んでいく。

画像: 五輪のモチーフとなった「サクラ」(2004年岐阜基地航空祭にて)

五輪のモチーフとなった「サクラ」(2004年岐阜基地航空祭にて)

これにはF-86Fブルーインパルスが五機編成であったことに対しT-4ブルーインパルスが六機編成であることも関係しているであろうが、それに加えモチーフとなった課目「サクラ」の存在がある。2003年、翌年に航空自衛隊50周年を控えたT-4ブルーインパルスは、その記念すべき年に向かって新課目の開発をスタートした。4番機水野匡昭1空尉(当時)発案による新課目「サクラ」は、自衛隊のシンボルである「桜」、その頃ヒットしていた歌「世界に一つだけの花」、そして2004年の「アテネオリンピック」からインスピレーションを得て、当初五つの円を花びら状に描く課目として開発がスタートした。開発を進める中、花弁の間にもうひとつ中心円を加え、最終段階では見栄えを追求して旋回方向を右旋回から左旋回へと変えて完成させた。

画像: 「サクラ」の発案者、水野匡昭3空佐

「サクラ」の発案者、水野匡昭3空佐

この「サクラ」をベースに「オリンピックシンボル」の五輪の形を整え、1番機は基準となって五機を引っ張り、スモークを出さずに一緒に円を描く。昨年の聖火到着式の準備が進む中で、1番機がスモークを出さずに旋回するこの描き方に、筆者は当初懐疑的であった。余計な1番機が見えて邪魔になるのではないかと心配したのだ。しかし、聖火到着式前に何度も行われた予行を見に松島基地に通う内に、この心配が徒労であることがわかった。1番機を探しても(かなりの回数ブルーインパルスを見てきたと自負する筆者でも)高高度でスモークなしで旋回する1番機を見つけ出すことができなかったのだ。流石は“展示飛行の魔術師”ブルーインパルスだ。いまとなっては、技術を見せつけるだけでなく、見栄えについても何度もチェックを行い、その見せ方に妥協のない“展示飛行専門チーム“であることをすっかり失念していたことを孟省するばかりだ。(ちなみに河野太郎防衛大臣(当時)も1番機がスモークを出さずに旋回していることをご自身のYouTube番組で述べられた)

画像: 図3:「サクラ」の描き方(上から見た図)

図3:「サクラ」の描き方(上から見た図)

『2020年2月16日【説明しよう!】「サクラについて」(ブルーインパルスファンネットFacebookページより)』
https://www.facebook.com/412165392221642/posts/2475874655850695/

こうしてブルーインパルスは持てる力を結集してオリンピックシンボルの五輪を57年ぶりに東京の空に描きに来る。そして、パラリンピック開会式当日に飛ぶのもはじめての快挙だ。パラリンピックシンボルの「スリーアギトス」を描くとの報道もあったが、どう描くのだろうか興味津々である。

さて、航空自衛隊より都内での飛行コースが発表された(7月15日付)。飛行開始時刻こそ公表されなかったもの、オリンピックシンボルの五輪に加えて、都内をパレード(航過)飛行することが確実となった。ブルーインパルスがカラースモークを曳いて東京の空を飛ぶのだ。

後は“世界中の青空を全部持ってきたような素晴らしいオリパラ日和”を待ち望むばかりだ。

画像: 東京オリンピック開会式当日の飛行ルート(出典:航空自衛隊Twitterより(7月15日発表)) twitter.com

東京オリンピック開会式当日の飛行ルート(出典:航空自衛隊Twitterより(7月15日発表))

twitter.com

【追伸】1964年3月生まれの筆者に東京1964の生の記憶はない。アベベの力走を見たはずだと親から言われたが覚えているわけがない。物心ついて押し入れの中から見つけたアサヒグラフ特別号のカラーグラビアがその記憶の原点だ。そんな記憶でも1964年生まれをひとつの矜持として生きてきた。筆者が卒業した江戸川区立東小岩小学校の前に「東京ドルフィンクラブ」が出来たのは、在校中、木造二階建ての校舎が鉄筋四階建てに建て替えられた頃の1973年だ。同級生にもこのスイミングスクールに入門した者がいた。同クラブ出身の池江璃花子選手は駅向こうの西小岩小学校の卒業だが、同郷の池江選手の復活は現在進行形のちょっとした自慢だ。この57年を語れば誌面が何頁あっても足りないが、その年月を顧みてひとつだけ云えるとすれば、この国には有能で素晴らしい人たちがたくさんいるということだ。いまは国難の最中にあるが、みんながひとつになればまた立ち直って進むことができるのだ。再びその自信を取り戻そう。まずはブルーインパルスの飛ぶ空を見上げ、前を向こうではないか。

文と写真:ブルーインパルスファンネット 管理人 今村義幸


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